【京都】五山第一位 天龍寺の歴史と見どころを解説(旅6日目②)

京都府

今回は京都屈指の観光地・嵯峨嵐山に建つ臨済宗の古刹、天龍寺のどころと歴史を紹介します。世界遺産に認定されている天龍寺は、鎌倉~室町時代に名を馳せた夢窓疎石が造った曹源池の日本庭園が日本で最初に史跡・特別名勝に指定された場所としても知られています。

今回は天竜寺の建物や庭園の見どころ、天龍寺建立の資金を集めた元との貿易(天龍寺船)、夢窓疎石について紹介します。

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天龍寺の歴史

天龍寺は室町時代に後醍醐天皇の菩提を弔(とむら)うために建てられた寺院です。
夢窓疎石が造った曹源池の日本庭園が有名で、世界遺産の古都京都の文化財に登録されている寺院です。

天龍寺は禅宗の一派、臨済宗天龍寺派の大本山で、
室町時代は京都五山の第一位に位置付けられ、比叡山延暦寺に対抗するほどの力を持った寺院でした。
天龍寺になぜそれほどの力があったのか、
今回は室町時代の禅宗にふれながら、天龍寺の建物や庭園の説明も含め紹介したいと思います。

天龍寺の場所ですが、京都市の西にある嵯峨嵐山にあります。
JR嵯峨野線の嵯峨嵐山駅から徒歩7分、嵐電の嵐山駅から徒歩1分の距離です。
まずは天龍寺のみどころをご紹介します。

江戸時代の慶長年間に建てられた中門をくぐります(上の写真)。
門をくぐると左に勅使門があります。
江戸時代初期の寛永18年(1641年)に御所から移築されたものです。
元々は伏見城にあった門が御所に移築されたものらしく、天龍寺で一番古い建物といわれています。

中門から真っすぐ進みます。
中門・法堂(はっとう)・大方丈と、東から西へ向かって伽藍が一直線に並んでいますが、主要伽藍が一直線に並ぶのは禅寺(ぜんでら)の特徴と言われています。

方丈から中に入ります。方丈は江戸時代末期の元治(げんじ)元年(1864年)の禁門の変で、薩摩藩の攻撃を受け全焼し、明治32年(1899年)に再建された建築です。
長州藩が御所に攻め入る際の本陣としたため、長州藩の兵が去った後に、薩摩藩の兵により略奪され放火されたといわれています。

天龍寺は臨済宗の僧であり作庭家であり、漢詩人・歌人でもある夢窓疎石が、後醍醐天皇の怨霊を鎮めるために足利尊氏に創建を勧め、建てられた寺院です。

夢窓疎石は禅宗の僧になる前には真言宗や天台宗を学んでおり、また老子や荘子の道教の知識も持っており博識で、多くの権力者が帰依した人物として知られています。

鎌倉幕府最後の得宗北条高時、建武の新政をやった後醍醐天皇、室町幕府を開いた足利尊氏、尊氏の弟で副将軍だった足利直義と、時の権力者すべてに帰依されるほどの人物だったと伝えられています。
美濃や土佐、東北から関東一円まで行脚しながら、各地に革新的な庭園を残した夢窓疎石の、最も晩年に近い作品が天龍寺の庭園といわれています。

大方丈の隣には書院があり、廊下を歩いくと多宝殿に繋がっています。

まだ春が訪れる前の季節でしたが、庭園の緑が綺麗で、また水路や建物の造りが美しく、綺麗な場所です。
ただ、靴を脱ぐと流石に寒く、足元がかじかんでしまいました。

境内の奥にある多宝殿は、後醍醐天皇を慰霊するために建てられたようです。

大方丈には幾度もの火災を免れ、藤原時代に造られたとされる天龍寺の創建よりも古い、御本尊・釈迦如来坐像が安置されています。
たまたま旧雲龍図の特別公開の時期で、明治32年まで法堂に描かれていた旧雲龍図を観ることができました。
平成9年より法堂で新しい雲龍図が描かれています。

曹源池の庭園

天龍寺と言えばこちらの曹源池(そうげんち)の庭園が有名です。
先程の江戸時代前に造られた勅使門が境内で一番古い建物だったように、天龍寺は応仁の乱や禁門の変に巻き込まれ、8回もの火災に遭い、古い建物が残されていません。
しかし、曹源池(そうげんち)の庭園は約700年前の、夢窓疎石が作庭した当時の面影をとどめており、歴史を感じさせます。
天龍寺のパンフレットには「国の史跡・特別名勝第一号に指定」と書かれており、曹源池の庭園がそれだけ国内で価値のある場所だということが分かります。

大方丈の外に出て庭園拝観の受付所から進むと、もっと間近に曹源池を観ることができます。

案内板には、
左手に嵐山、正面に亀山・小倉山、右手に愛宕山を借景(しゃっけい)にした池泉回遊式庭園で、
優美な王朝文化の大和絵風の伝統文化と、
宋元画風の禅文化とが巧みに融け合った庭で、
正面の三段の石組は龍門の瀧と云い、中国の故事に由来し、
手前の石橋は日本最古の橋石組で、右の石組は釈迦三尊石と称し、
釈迦如来(中央)・文殊菩薩(左側)・普賢(ふげん)菩薩(手前下側)を表現していて、
平成6年にユネスコより世界文化遺産に登録された
といったことが書かれています。

龍門の瀧は龍門瀑ともいわれ、
中国の黄河(こうが)の、三段の滝になった急流を登り切った鯉が龍になるという、日本では登龍門で知られる故事を表しています。
禅宗では登龍門は解脱を意味し、夜になると雲水の方が坐禅を組み庭を眺め、修行するのだそうです。

滝の足下の三連の石橋は仏教・儒教・道教の三教を表している、なんてことも、読んだ本には書かれていました。

禅では境地というものを重んじるのですが、境地とは、伽藍一帯の自然・人口の優れた景観を指すようです。
夢窓疎石が造った、眺望を活かした構成や石組などの優れた造形は、禅の境地を現しており、以後の庭園の一つの規範となり、足利将軍家が造った庭園に大きな影響を及ぼしました。境地は詩で表現することもあるようです。

一見、曹源池の庭園が禅の境地を現しているように思えるのですが、曹源池は天龍寺十境(じゅっきょう)の一つに過ぎず、後ほど紹介しますが、嵐山を含めたもっと広い範囲を夢窓疎石は境地としたようです。

実際の面積以上に奥行きが感じられる雄大な造りが特徴でもありますが、個人的には何とも言えない池の色がとても印象的でした。
旅の後から知りましたが、禅寺の庭園に欠かせない枯山水も、夢窓疎石が初めてつくったのだそうです。

ついでですが、夢窓疎石が造ったとされる庭園は関東では鎌倉にある寺院の他に山梨県の恵林寺が知られています。
東京周辺や山梨近郊に住んでいる方は、一度行ってみてはいかかでしょうか。近くには枯露柿(がき)の有名な岩波農園があり、11月頃にはころ柿のカーテンを楽しめます。

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庭園拝観

天龍寺の庭園拝観では曹源池を間近で観れるのが魅力ですが、境内に植えられている植物を楽しむこともできます。
この時は、咲いている花は梅くらいでしたが、それでも緑が綺麗でした。春になると桜をはじめ多くの花が観られるので、より歩くのがお勧めかと思います。

竹林の小径に続く北門の近くには百花園があり、池の後ろには見晴らしのいい小高い丘があります。

呉羽枝垂梅(くれはしだれうめ)、隼人三葉(みつば)躑躅、芍薬(しゃくやく)、甘茶(あまちゃ)、これは葉っぱから作られたお茶は、お釈迦様の誕生日を祝う灌仏会で仏像に注ぐお茶として知られています、などを見れ、また

日月(じっけつ)椿、白花(しろばな)沈丁花、有楽(うらく)椿、雁金草(かりがねそう)、赤星石楠花(しゃくなげ)、笹竜胆(ささりんどう)、琉球躑躅(つつじ)、曙馬酔木(あせび)、山茶花などを見ることができました。

植物に関しては全くの無知なのですが、それでも花や草木の名前を見るだけで楽しめるものです。花を咲かせていなくても、名前の響きや漢字に趣があります。花に限らず他の生き物や自然、和菓子もそうですが、日本語には美しい名前がたくさんあることに感心します。

この地はその昔、檀林皇后と称された嵯峨天皇の皇后(橘嘉智子)が創建した、
日本で最初の禅寺・檀林寺がありました。檀林皇后は美人として名高く仏教に深く帰依しており、死後自分の体を鳥や獣に餌として与え飢えを救い、
また諸行無常を示すためその様子を絵師に描かせた逸話が残されています。
檀林寺が廃絶した後は、亀山上皇が仮の御所を営み、かつて後醍醐天皇も幼き日に遊んだであろう場所と言われています。
日本の禅宗にとってははじまりの地ともいえるこの場所に、後醍醐天皇の菩提を弔(とむら)うために天龍寺が創建され、伽藍の建築には6年の歳月がかかり、後醍醐天皇の七回忌を兼ねて落慶法要が営まれたといいます。(『京都の歴史を歩く』
室町時代の最盛期は今よりも境内が広く、150もの堂塔が建てられていたといいます。

天龍寺の貿易

かつて、室町期の最盛期にには広大な敷地を持ち150もの堂塔があった天龍寺は、その建設費を貿易で賄いました。高校の日本史で天龍寺船という言葉を習った記憶のある方もいらっしゃると思います。その貿易についてここでは説明したいと思います。。

天龍寺の建立は、当初は荘園の寄進や荘園からの年貢で造営費を賄おうとしましたが、当時は戦乱で国土が荒廃していて、とてもそんな巨額なお金は集められませんでした。
そこで元と貿易をすることにした訳ですが、そもそも中国大陸との貿易がそれほど儲かるものだったのでしょうか。

日元貿易について調べてみるとWikipediaに、日本から金・銀・銅や水銀、硫黄、その他刀や扇、螺鈿・蒔絵製品などを持っていき、銅銭や陶磁器、書籍や書画、お茶などを持ち帰ってきたとありました。
日本から鉱物や工芸品を持って行って売り、向こうのお金と唐物を持って帰ってきた訳です。

しかし、よくよく考えてみると、そのようような貿易がなぜそれほどの利益を出したのか疑問に思います。
金や銀がそれほど高値で売れたのでしょうか。

結論から言うと、元との貿易が儲かったのは通貨を持ち込んだからでした。通貨を日本に持ち込むことで、その価値が元よりも何倍も高くなったので貿易が儲かったのです。

当時日本は通貨を作っておらず、渡来銭と呼ばれる中国大陸で使われていた銅銭を使っていました
銅銭は供給量が限られており、また経年劣化で破損したり紛失したりして不足気味になるので、価値が上がるものでした。
現代で言えば、銀行がお金を刷らずデフレになっている状況です。

日本で使われていた元の銅銭は、本場元で使われていた価値の何と7倍近くもあったのだそうです(『経済で読み解く日本史 室町・戦国時代』)。
モノよりも輸入される銅銭の方が価値が高く、銅銭の価値を7倍近くにしないと日本国内のモノとカネとのバランスがとれなかったようです。

中国大陸に行きモノを売り銅銭を手に入れ、それを無事日本に持ち込むことができれば、向こうで1万円の価値の銅銭が、海を渡るだけで7万円近くもの価値になったのです。
それ故に大陸との貿易は儲けるものだったのです。

そしてこの貿易に関わったのが夢窓疎石でした。疎石は室町幕府の副将軍足利直義に何度も懇請し、5000貫文を幕府に納める条件で日元貿易の承認を得ました。
当時の1貫文は現在に換算すると大体10万~20万円といわれており、5000貫文は5億~10億円です。日元貿易は、それだけのお金を幕府に納め、また経費を差し引いても、利益が見込まれるものだったことが分かります。
現に天龍寺船は莫大な利益を上げて帰国し、博多商人を始め関わった人たちがしこたま儲けたといいます。

こうした、中国大陸との交易で銅銭を日本に持ち込み、その利益で寺社を造ることは、鎌倉時代末期から行われており、また民間の交易はその以前からも行われており、それを主導したのが臨済宗をはじめとする禅宗の僧侶たちでした。

漢詩に長じていた臨済宗の僧は外交や貿易にもその能力を発揮し、貿易で利益を出し、それを幕府に納めることで保護を受け、台頭していきました。幕府としても、南都興福寺や比叡山延暦寺などの既存の寺社勢力に対抗するために臨済宗を保護し、鎌倉幕府は鎌倉五山を、室町幕府は京都五山を筆頭とする臨済宗の寺社を優遇したのでした。

幕府のバックアップを受け公然と銅銭を日本に持ち込むことができた臨済宗は、見方を変えれば、お金の供給量をコントロールできる立場にあったといえます。国内の銅銭の量を制限し、銅銭の価値を高めることができる存在だったのです。

五山を筆頭とする臨済宗は貿易だけでなく、税金の徴収や金貸し、荘園経営の能力も高かったことが知られていますが、そちらについては機会があれば、動画を作りたいと思います。

造営費の捻出に成功した天龍寺は京都五山の第一位に位置づけられ、以後室町幕府の政治・外交・文化に大きな影響を与えていきます。
そして南都北嶺の既存の寺社勢力と対立するようになっていくのです。

1339年の暦応2年に創建された天龍寺は、当初は暦応資聖禅寺(しせいぜんじ)といい、寺の名前に年号が用いられていました。寺の名前に年号を付けることは、最高位を表すものでしたが、これに対して延暦寺は、年号を使うのは延暦寺以外には許されないことだと猛抗議をし、天龍寺と改めさせました。
この一件からも、比叡山と五山との争いがうかがえます。

ついでですが、、天龍寺と改められたのは、一説には中国にあるとされる天龍山から命名したとも、また足利直義(ただよし)が川から天に昇る龍の夢を見たことから名づけられたとも、いわれています。
法堂の天井に見事な雲龍図が描かれているから天龍寺だ、という覚えやすい解説がされることがあるようですが、当時は天井に龍が描かれていなかったと、読んだ本には書かれていました。

嵐山

室町時代に幕府の保護の下、大きな力を持った天龍寺の名残は、幾多の戦乱に遭った天龍寺では体感することができませんが、渡月橋周辺を歩くと当時に権勢を感じることができます。

渡月橋から天龍寺にかけての嵐山一帯は、この辺りはかつては天龍寺の境内でした。だったようです。
下の写真の右奥の方に天龍寺がありますが、天龍寺の庭園の奥にある亀山公園も、昔は天龍寺の境内だったといいます

先ほどの曹源池の庭園で禅の境地にふれましたが、夢窓疎石はこの辺りの自然を含めた景観を天龍寺の境地としたようです。
当時は渡月橋が現在よりも上流に架けられていたらしいのですが、その渡月橋や大堰川、嵐山や亀山などを含む壮大な空間が天龍寺の境地だったのです。
夢窓疎石は、伽藍や橋などの人工物と山や川などの自然を融和させた景観を境地としたと言われています。

そんな天龍寺や臨済宗の歴史、嵯峨野や嵐山の歴史を思い浮かべて、
現在では観光地として綺麗に整備されている嵯峨嵐山を歩いてみると、また観光とは違った歴史散策を楽しめるのかと思います。

参考文献

小林丈広・高木博志・三枝暁子『京都の歴史を歩く』岩波書店 (2016年)

上念司『経済で読み解く日本史1 室町・戦国時代』飛鳥新社 (2019年)

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