【新潟県】佐渡金銀山⑤相川金山の坑道見学 明治時代コース(日本一周補完の旅14日目)

新潟県

この記事では明治時代の近代化した坑道と当時の時代背景を書いています。

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相川金銀山の近代化 道遊坑(明治官営鉱山コース)

江戸時代について知って後は、明治時代以降の坑道の道遊坑を観てみます。

明治から平成元年の操業休止まで約100年間使用された坑道やトロッコ、機械などが当時のまま保存されており、それらを見ることができます。
こちらにも説明板があり、いろいろなことを知れます。

江戸時代、手掘りで開削された坑道は明治時代になると西洋の近代技術を導入して、地下深くに広がる金銀鉱脈を効率的に採掘するために、立坑という地中エレベーターを掘り、深さ30m毎に水平坑道を掘り、鉱石を採掘し、立坑を利用して外に運び出すようになりました。
坑道はアリの巣のように広がっていて、総延長は約400km、これは佐渡から東京までの長さとも言われますが、に及びました。

大掛かりな設備投資が行われたのは、明治政府が殖産興業政策として鉄道とともに鉱山開発に力を入れたからでした。
その甲斐あり、江戸末期には産出量が激減していた相川金銀山は、明治期に金銀生産の効率が上がりさらに発展しました。
※英国人ガワーが火薬発破法を伝え
独人レーが洋式大立竪坑を開削

機械やダイナマイトを使った採掘が始まり、明治32年(1899)には鉱量の豊富な道遊脈の直下に坑道が掘られ、これが現在の観光コースの道遊坑ですが、掘られた鉱石が道遊坑に落とされトロッコで外に運ばれました。

馬を使っての鉱石のまき上げや、水平坑道への鉱車導入などで効率を高め、洋式の精錬が試みられ、業績が向上しました。

しかしその反面、鉱石を運搬していた背負子や精錬作業をしていた人たち2千人が職を奪われることになり、一時、暴動が起きそうな不穏な状態となり、佐渡県は新発田の士族に警備を求めたこともあったようです。

その後も溶鉱炉の新増設、大立竪坑(おおだてたてこう)の開削、新精練方式の導入などがされ生産量は増加し、新たな発展が行われました。
※大立竪坑は相川金山坑道の受付入口よりさらに上の方にある

鉱石などを運搬する鉱車(こうしゃ)は明治期は木製で、昭和20年代以降に鉄製のものになりました。

蓄電池式機関車は昭和30~40年代前半のものです。

江戸時代に鉱脈を探すために掘った狸穴が各所にあります。

無宿人の休憩所もあります。

道遊の割戸の下辺りにあたるこの場所では、明治32年から平成元年の休山まで掘削が続けられました。
山頂からこの付近まで鉱脈がほぼ垂直に、幅10m、長さ120m、深さ100mのものが走っていたようです。

貯蔵庫も

坑道の外の遺構

道遊坑を出ると高任立坑があります。
鉱石などを地上に上げる地中エレベーターです。

出口から左に進むと、道遊の割戸を近くで見れる場所があります。

立坑や神社に付けられている高任というのは、大島高任という人物から来ています。

釜石で日本初の高炉による鉄鉱石製鉄に成功した人物で、洋式高炉の技術移植を見事に成し遂げたことから日本近代製鉄の父と呼ばれています。

こちらが道遊の割戸です。

佐渡金山のシンボルとなっています。

てっぺんは江戸時代に掘り進められたもので、中腹と地下部は明治から平成元年の休山まで採掘が続けられました。

道遊坑の出口に戻り先を進むと、機械工場があります。

こちらは三菱のマークが刻まれたガラスが有名です。

昭和10年の前半の建物で、当時はガラスは貴重で珍しかったので盗難防止のために釘などで傷を付けたものです。

時間が限られていたのであまりゆっくり見れませんでしたが、中には先ほどあった蓄電池式機関車を充電する場所があり、掘削に使ったドリルや排水に使ったエアーポンプなどがあります。

道遊坑の撮影スポット

下には粗砕場があり、高台からは粗砕場(そさいば)とベルトコンベヤーで繋がれた貯蔵庫と変電所、右に水銀を用いて金を回収する搗鉱場(とうこうば)跡が見えます。

山の上から下に向かって作業工程が進められ、約3kmにわたる生産ラインが設けられています。下へ下へと作業が進められ金銀が取り出させ、そして港に運ばれ船に積まら出荷されました。

道遊坑コースで見れた設備は当時最新で最高の技術でした。
先ほどの説明板からいろいろな設備が日本初だったことが分かります。

外国人の指導を受け、最新技術と機械を使い実践経験を積み、明治時代半ば以降は西洋の技術を学んだ日本人たちによって後進に引き継がれ、さらに発展していきました。
佐渡金銀山は国内の模範鉱山と呼ばれ、日本各地の鉱山や大学から実習生が学びに来ました。また鉱山学校も開設され技術者の育成が図られました。

こちらは昭和13年に造られたベルトコンベアーヤードで、粗砕場で破砕された鉱石を右の貯鉱舎に運ぶ施設です。

坑道に向かう道にあるこちらの建物は搗鉱場(とうこうば)の基礎部分です。

低品位の鉱石を粉砕して水銀を用いて金を回収する施設です。
明治24年と26年に二つ造られ、大正時代に火災で焼失し翌年に新しく建てられ、戦時牛に創業を停止しました。
戦時中は金の生産を止め銅や鉄、鉛などの生産に転換したため、停止しました。

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