【富山県】銅器の一大産地 高岡の歴史と見どころ(旅12日目②)

富山県
記事内に広告が含まれています。

今回は富山県第二の都市、高岡の歴史を紹介します。
江戸時代から鋳物が発展した高岡は現在銅器生産が国内シェア90%を超える日本一で、日本の銅器の一大産地です。
今回は旅で撮った映像とともに高岡の銅器生産の歴史を解説し、高岡銅器の象徴として知られている高岡大仏と高岡銅器発祥の地の金屋町を紹介します。

スポンサーリンク

高岡大仏

2022年の春に高岡の町を訪れました。
高岡は金沢駅と富山駅の間にある、富山県の北西部にある市で、県庁所在地の富山市に次ぐ富山県第2の都市です。

駅から10分ほど歩き、まずは高岡大仏を観ます。
高岡といえば銅器の町として有名で、その象徴として高岡大仏が知られています。

高岡大仏は地元の銅器製造技術の粋を集め、1907年より26年の歳月をかけて完成した、高さ16mの大仏です。
奈良の大仏と鎌倉の大仏と並び日本三大大仏と言われることもあります。
台座に続く参道を歩くと、大仏様の目が少しづつ見開かれていく様子を見ることができます。
鎌倉時代に木造の大仏が造られ、以降、荒廃したり焼失したりし、その都度再建されてきました。

銅は耐食性に優れた物質で鉄と比べて風雨に晒されても朽ちることがありません。
古代の遺跡から銅鐸や銅剣が原型を留めながら出土するのもそのためで、古来より日本では銅を用いた金物が造られてきました。

耐食性に加えて加工性の高さも銅の優れた性質で、鉄などに比べて繊細な表現をすることができます。
そのため仏具や美術品の材料に用いられてきた歴史があり、着色や象嵌、彫金といった装飾技術が発達し、幅広く利用されてきました。

※象嵌:金属の表面を削り、そこに別の金属をはめ込む技法
 彫金:金属の表面をタガネで切ったり押したりして、模様を彫り込む技法

明治から大正にかけて製造技法の革新が起こり、生産量が飛躍的に増え、これが高岡を銅器の町に押し上げました。
観光地や町で見かける銅像の多くはこの高岡の地で作られたものです。

山町筋

高岡の大仏を観た後は、高岡銅器発祥の地と言われる金屋町に向かいます。
その途中に、山町筋(やまちょうすじ)があります。

土蔵造りの建物が並ぶこちらの通りは、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。明治後期に建てられた建物で、明治時代の防火建築を知れるとのことですが、自分に知識がなく、他に見どころがなく車の通りも多く、山町筋周辺は正直がっかりスポットでした。

昆布締めのお店がありますが、高岡は昆布の消費量がトップなのだそうです。
江戸時代に北前船が富山に寄ったことから、北海道から大坂に運ばれていた昆布が高岡に広まったのがきっかけのようです。

高岡駅にある昆布の看板

高岡鋳物発祥の地 屋町(重要伝統的建造物群保存地区)

山町筋からさらに10分ほど歩くと金屋町に着きました。
江戸時代初期に、加賀藩2代藩主の前田利長が町の繁栄を図り、この地に鋳物師を招き保護し、それが高岡銅器の始まりとなりました。

まずは高岡市鋳物資料館に入ってみます。

裏側の入口

高岡では、最初は鍋や釜・鉄瓶等の日用品や、鋤(すき)・鍬(くわ)等の農耕具といった鉄鋳物が生産されていました。
その後、江戸中期頃に釣鐘や灯籠などの銅鋳物がつくられるようになりました。

江戸末期頃には、銅器鋳物技術の進展により、仏具や花びんなどの日用的で装飾・鑑賞性の高いものが造られるようになり、現在は国内はもとより海外に輸出される製品もつくっています。
そんな高岡の地場産業として発展してきた歴史を資料館で知ることができました。

また入館すると10分ほどの映像資料を見せてくれ、銅器の製造方法について理解を深めることができました。
銅器の製造工程は大雑把に言うと原型を作り、そこに熱した銅合金を流し込み、冷えたら型を外して模様を彫り、色を付けるというもので、
原型、鋳造、彫金、着色のそれぞれに様々な方法があり、そのバラエティーの多さに驚きました。

こちらは牛馬が田畑を耕す犂先(すきさき)で、高岡で作られたものは硬くて丈夫で人気がありました。

こちらは鉄製のニシン釜で、明治から大正にかけてニシン粕(かす)を作るためのニシン釜が作られ、北海道に運ばれました。

鋳物の町金屋は加賀藩の手厚い保護の下、育ちました。

2代藩主前田利長が町人を、現在の富山・石川をはじめ愛知・滋賀・福井・新潟・長野などから630人余りの商人や職人を集め、土地を無償で与え税金を免除し、数々の特権を与え、町の繁栄を図りました。

しかし町を開いてから僅か5年で、幕府の一国一城令により高岡城が廃城となり、武士たちは金沢に移り町人たちも高岡を離れ、町が急速に寂れてしまします。

その後、3代藩主の前田利常は利長の遺志を受け継ぎ、高岡を城下町から商工業の町へと転換を図り、問屋や蔵を設置し、物資が集散するようにしました。
その結果、高岡は後に加賀百万石の台所と言えるほどの経済都市に発展しました。

利常は江戸に向かう北陸道のルートを高岡の町を通るようにし、町はずれの寺院を町の中に移動させ、武家屋敷跡に新たな町人の移住を勧め、広大な利長の墓所と瑞龍寺を建て、高岡の町を栄えるようにしました。

加賀藩が参勤交代の際に必ず高岡の前田利長の墓所に立ち寄ったことが、前日に訪れた石川県立歴史博物館の展示にありましたが、その理由が分かりました。

こうした保護を受け発展した高岡の鋳物は、やがて販路を藩の外に広め、江戸末期には横浜の外国人居留地に進出し、欧米に輸出するまでに発展しました。

以上の高岡の歴史を知ることができましたが、こう言っては何ですが、わざわざ行く価値があるかと聞かれれば、答えに困ってしまいます。
見落としたのかもしれませんが、ネットで知れること以上の展示は発見できず、わざわざ駅から20分歩いて訪れ、また20分かけて帰るのはどうか、と思うのが正直な感想です。
高岡の歴史は興味深く知りたいと思えるものですが、ネットや本でも十分知れ、時間をかけて足を運ぶのを声を大にして勧めするのは、無責任に思えます。

銅器のより詳しい特性、例えばタンブラーとして人気がある理由や、
戦後に富山でアルミニウム工業が発展したのには、高岡銅器の技術が土台にあったことなど、
そういったことをもう少し広く深く知りたいところでした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました