【京都】舟屋が並ぶ魅力の港町 伊根 後半(電車日本一周補完の旅9日目②)

京都府
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伊根と周辺の観光地

※前半の続きです。
伊根は京都府与謝郡(よさぐん)にある人口2千人ほどの町です。
バスから降りると海と舟屋が見える広場があります。
浦島伝説と徐福伝説、そして舟屋が並ぶ光景があるのが伊根の特徴だと、説明板に書かれています。

浦島太郎を祀る浦嶋神社は自転車で片道2時間くらいかかりそうなので、今回行くのは徐福伝説の残る新井崎(にいざき)神社までとします。

ユーチューブでは紹介できななかった内容です。
説明板には、
浦嶋神社:浦島太郎を祀る神社、天長8年に創建と伝わる。浦島太郎の伝説は日本各地に伝わるがこの地方での話は『日本書紀』『丹後風土記』『万葉集』に書き記されているほど古いもの
と書かれています。

浦嶋神社はGoogleマップでは宇良(うら)神社と表記されています。
丹後には浦島伝説に関係する神社がもう一つあり、網野町の島児(志摩子)神社も浦島伝承の神社とされています。読み方は「しまこ」。

伊根の舟屋①

伊根は日本でも珍しい舟屋が並ぶ場所です。
舟屋とは、1階が船の格納庫で2階が居室(きょしつ)という独特の構造をした家屋です。
伊根浦は日本海にしては珍しく波が穏やかなので、こうして海際に建物を建てることができたのです。

若狭湾に面した伊根浦は日本海側には珍しく南に開けた静かな入り江で、東、西、北の三方を山に囲まれています。目の前に浮かぶ青島が天然の防波堤となり、また急に海が深くなっているので、波が起こりにくい地形なのです。
潮の干満差が年間50cm程度と極めて小さく、冬の日本海の荒波が打ち寄せてこない珍しい場所です。

そのため江戸時代より舟の倉庫や漁の作業場として舟屋が建てられてました。
明治期から維持されている舟屋の景観は統一感があり、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

ユーチューブでは紹介できななかった内容です
伊根の舟屋は切妻造りの二階建て、一階は舟を揚げる所で床は海に向かって傾斜し、海水が半分くらい入るようになっています。
二階は元来は、漁網や漁具の置き場で、干し物の干場がありました。
現在は居間となり民宿を経営している家では客室となっています。

海岸に集落が密集しているのは、一年中波が穏やかだからだけではなく、平地が乏しいからでもあります。
『京都府の不思議辞典』より

上と下の写真は観光案内所から東に進んだ所から見える舟屋の景色です。

観光案内所は9時から開きますが、まだ30分時間があるので、少し周りを歩いてみたいと思います。

舟屋は個人の所有地なので勝手に中に入ることはできません。

バス停の平田の近くに八坂神社があります。

高い所から舟屋を見渡すことができます。

延長約5kmにおよぶ伊根湾の海岸沿いに、350世帯の集落が連続して細長く形成されています。
現在でも約230棟の舟屋が連続し並び、独特の景観を形成しています。

先程の説明板にありましたが、明治13年(1880年)から昭和25年(1950年)までの鰤景気により、その多くが瓦葺二階建に建て替えられました。
波が穏やかで急に深くなっている伊根湾は良港で、多くの魚介類が獲れ、鰤や岩ガキ、オアオリイカ、アカアマダイが有名です。

創業260年の造り酒屋、向井酒造では、伊根満開という珍しい赤い日本酒を造っています。

紫小町という古代米を使い、ロゼワインをおもわせる甘酸っぱさと濃厚な味わいが特徴です。

ロックやソーダ割りでも楽しめ、持ち帰りやすいサイズもあるので、お土産にお勧めです。
天橋立駅の近くのお土産屋や、天橋立を観れる笠松公園のお土産屋にも売っていました。

レビューはこちらをどうぞ↓

【京都】伊根満開 古代米を使った日本酒 | 四季を気ままに (shikikimama.com)

新井崎神社へ 丹後の歴史

さて、9時に観光案内所が始まったので、自転車を借りました。

観光案内所ではスタッフの方からお勧めの撮影スポットを教えてもらえ、見やすい地図をいただけました。

自転車に乗って約1時間かけて新井崎(にいざき)神社に向かいます。

立ち漕ぎして走り続ければ30~40分で行けるのでしょうが、旅中に筋肉痛になりたくないので歩きます。
車の通りが少ないので安心して歩くことができます。

この丹後地方には浦島伝説や徐福伝説がありますが、丹後半島は古代に大陸との交流あった場所でした。

次回ご紹介する天橋立には羽衣伝説があり、伊根や天橋立のある丹後は、中国大陸から渡ってきた人々を受け入れた歴史があります。
丹後半島には600年代の創建と伝わる寺社や仏像が多数残されていて、渡来人の古代遺跡や地名、伝承が残っているのだそうです。

朝鮮文化が日本へ伝わるルートは、九州から瀬戸内海を経由して大阪湾へ至るコースと、丹後半島あるいは若狭から上陸して近江を経由して飛鳥へ至るコースがあります。
一般的には九州ルートを想像しますが、古代は丹後や若狭から上陸するケースが多かったようです。
日本と朝鮮半島を結ぶ海流に目を向けると、朝鮮から九州へ至る海流は存在せず、朝鮮から福井へ至る対馬海流にのったほうが流れに船を任せるだけで短時間で安全に来日できたのだそうです。
航海術や船の建築技術が未発達だった古代は、丹後や若狭は渡来人が来日するメインルートでした。
※若狭の代表的なのが敦賀です
※出典:宮元健次『日本三景の謎 天橋立、宮島、松島―知られざる日本史の真実』

坂を上る度に絶景を楽しめます。

新井崎(にいさき)漁港

そして観光案内所から約1時間、新井(にい)の棚田を観ることができました。

棚田が観れる場所は2カ所ありますが、どちらか一つは、休耕地のようです。

高齢化により田んぼが使われなくなっているようです。

近くには、徐福渡来の地、蓬莱の里と書かれた看板があり、新井崎神社があります。

新井崎神社と徐福伝説

徐福が上陸したハコ岩と経文岩(きょうもんいわ)と言うのでしょうか、それを見てみます。

徐福とは、紀元前221年に中国の統一を果たした始皇帝から、不老不死の薬を見つけるよう命じられた医者です。三千人の人夫を率いて航海に出たものの、戻ってこなかったことが中国の歴史書の『史記』に書かれています。
徐福が日本に上陸した伝承は日本各地にあり、その一つが丹後です。

YouTubeで紹介できなかった内容です。
徐福が日本に上陸した伝承は、『京都府の不思議辞典』によると、丹後の他に紀州熊野一帯、富士山・吉田市、佐賀県、宮崎県延岡、鹿児島県串木野、東北などにあります。
『日本三景の謎 天橋立、宮島、松島―知られざる日本史の真実』によると、徐福が探した不老不死の薬は水銀とされ、かつて水銀埋蔵地帯だった奈良の吉野や三重の熊野、和歌山の高野山、そして丹後から若狭にかけての地域にその伝承があります。
丹後の「丹」の字は水銀が採れる場所だったことを表していることから、そう考えられているようです。

こちらが経文岩(きょうもん岩)で、村人たちがお経を唱えて徐福を匿った伝承があります。

説明板によると、徐福の時代はまだ仏教が日本に伝来していないので、この地の村長と徐福の集団が話し合った場所とされています。
コンクリートの壁がありますが、これは戦時中にこの洞窟にサーチライトが格納されていて、敵機が来た時にハコ岩に引き出して夜空を照らしたのだそうです。
戦時中は陸軍の砲台や海軍の施設がこの辺りにはあったようです

そして海の見える見晴らしのいい場所にやって来ました。

あの辺りから歩いて来ました。

徐福上陸の地と書かれた棒がありますが、この下の岩場に舟が着き、徐福の集団が上陸した伝承が残されています。

奥に見える島は冠島と沓島です。

徐福上陸の地の碑がある場所から少し歩き、

新井崎神社の社殿にやってきました。

新井崎神社は徐福を祭神として祀っている神社です。

神社の説明には、徐福は紀元前219年に始皇帝に、海中に三神山(さんしんざん)があり、そこに仙人がいて不老不死の薬を練っているので、それを取ってきたいといい、許可を得て航海に出てこの地に上陸し、
黒茎の蓬(くろくきのよもぎ)と九節の菖蒲(きゅうせつのしょうぶ)を求めめたと書かれています。
そして徐福はよく村人を導いたので村長となり、死後、神として祀られ、その御利益は海上安全や豊漁、病気の平癒、特にハシカの神として有名である、とあります。

YouTubeで紹介できなかった内容です。
新井崎神社のHPには、伊根町の新井崎に辿り着き、住み着いた徐福は、医薬・天文や占い、漁業や農耕を教えたと書かれていました。そのため、里人たちは彼を慕い、死後は産土神として新井崎神社に祀りました。
同様のことが、丹後地方や若狭湾周辺でもあったことが考えられます

こちらの説明板には、新井崎(にいさき)の黒岩は蝙蝠山が噴火した際の火山岩とあります。

仙人とありましたが、これは道教の思想です。
ここから見える二つの島が冠島・沓島と名付けられているのも、道教思想によるもので、道教では、死ぬ際に冠と沓を残して地上より消滅して仙人になるという「尸解仙(しかいせん)」と呼ばれるものがあり、その思想が反映しているのだそうです。

新井崎漁港と新崎の海の幸

帰りは新井崎漁港(にいさきぎょこう)が見える場所を通りました。

新井崎漁港ではアオリイカが獲れるのだそうです。
伊根では11月から2月頃に獲れる寒ブリが有名ですが、その前の9月後半から12月前半が最盛期となるアオリイカも美味しいと評判のご当地の食材です。
アオリイカはイカの中でも最高峰の味わいとされ、秋イカとも呼ばれるのだそうです。
伊根の海の幸はその他、10月から12月頃が旬の丹後ぐじと呼ばれるアカアマダイや、GWから8月中旬までが旬の岩ガキも知られています。
丹後ぐじは上品な甘みを持つことから京料理に欠かせない高級魚で、岩ガキはえぐみがなくマイルドな口当たりが特徴です。

こういった家も観ることができます。

時間が合えばバスでアクセスするのもいいのかもしれません。

この道は新井崎街道というようです。

帰りも坂があるので戻るのに40分ほどかかりました。

伊根の舟屋②

舟屋のある場所に戻り、観光案内所で教えていただいた地図の右側のスポットに行きます。

耳鼻地区と書いて「みび」と読むのでしょうか、むかしは「にび」と呼んだそうですが、そこにある慈眼寺(じげんじ)に行ってみます。

高台から舟屋を見れるスポットで、瓦屋根の統一された景観を目にすることができます。

よく見ると、舟屋の奥に主屋があるのが見えます。
舟屋はもともと舟を海から引き揚げて風雨や虫から守るために造られた建物で、人が住むことはあまりなく、大半の方は主屋で暮らしています。
昔は木の船を使っていたため舟を乾かす必要があり、それで舟屋が造られましたが、二階は網を干したり漁の道具を置くための簡易的な造りだったといいます。
現在は木は船は使われず船を引き込む必要がないので、1階が海と接していない家が多いです。
船を収納することがなくなった舟屋では、空いた一階を魚を料理したり洗濯物を干したりする場として利用され、海の暮らしの場として活用されています。

ユーチューブでは紹介できなかった内容です。
舟屋は子ども夫婦の住まいや老後の離れとして舟屋を使う場合もあります。

古い建築が好きな人は、蔵に注目するのもいいのかと思います。
切妻造り浅瓦葺きの蔵は土蔵で防火性能が高く、江戸・明治期のものが多く残っているのだそうです。主屋、舟屋よりも古いものが残っているので、注意して見てみるのもいいのかもしれません。

観光案内所近くの説明板にありましたが、もともとは舟屋と主屋は隣接していました。昭和6年(1931年)に約10年の歳月をかけて幅4mの道路がここ伊根に敷かれた際、主屋と舟屋との間に道路が造られることになり、舟屋や蔵が海側に移設されました。
その時に多くの舟屋が二階建てに建て替えられましたが、その規模や形態が伝統を維持した景観になるよう配慮されました。
舟屋の二階を客室にして民宿を経営している家もあります。

反対側の、地図の左のスポットにも行ってみます。

先ほどご紹介した八坂神社の近くにも舟屋群があり、ここからも海に浮かぶ舟屋を観ることができます。

日本でも珍しい、波が穏やかな漁師町の生活から生み出された特異な建物は、何度見ても飽きることがありません。
国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されたのは平成になってからですが、この景観が明治時代から守られてきたことを思うと、感慨深いものがあります。

ここに来る時、遊覧船乗場の近くには防空壕がありました。

詳細は分かりませんが、伊根は軍港の舞鶴が近く、何かしらの軍事施設があったとされ、戦時中に空襲を受けています。
もしかしたら舟屋も空襲の被害を受けたのかもしれません。

遊覧船は約25分周遊し料金が1,000円で30分毎に運行しています。
カモメのエサやりもできます。
※2023年7月現在の情報です

遊覧船乗場では伊根プリンとオリーブオイルソフトクリームが評判です。
海を見ながら食べられる席がありお勧めと、観光案内所のスタジオの方がおっしゃっていました。
場所は、伊根湾めぐり・日出というバス停になります。

伊根散策の感想

そして伊根散策を終え、12時半のバスで天橋立に向かいました。
伊根に着いたのが8時半前なので4時間の滞在でした。
往復約2時間かけて新井崎神社に行くには丁度いい時間でしたが、遊覧船やご当地の食を楽しむならもう1時間は欲しいところです。
新井崎神社まで行かず自転車で海の周りを見ながら、遊覧船に乗ったり舟屋見学をし、ご当地の食を楽しむなら4時間あれば十分かと思います。3時間くらいが丁度いいのではないかと、体感的に思いました。

旅の予定上断念しましたが、せっかく伊根まで来たからには、舟屋に一泊してゆったりと過ごすのが一番いいのではないかと思います。
海を間近に感じて静かな波を見聞きし、地元で獲れた新鮮な魚介類を楽しむ。
そんな贅沢な体験をするのも、いいのではないでしょうか。

YouTube

動画でも紹介しています。是非ご覧ください。

参考文献

宮元健次『日本三景の謎 天橋立、宮島、松島―知られざる日本史の真実』

『京都府の不思議辞典』

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