【京都】宇治の隠れた名所 萬福寺(日本一周補完の旅5日目③)

京都府

今回は京都の宇治にある萬福寺という寺院をご紹介します。江戸時代に創建された禅宗の一派、黄檗宗の大本山で、江戸期の日本に大きな影響を及ぼした寺院です。

旅をしたのは2022年の3月中旬です。この記事は前回(平等院鳳凰堂)の続きです。

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黄檗宗とは

JR宇治駅から京都駅に向かう途中、黄檗駅で降りました。

黄檗駅には、萬福寺という黄檗宗の大本山があります。平等院から歩いて行けなくもなく、40分くらいの距離です。

黄檗宗は江戸時代に明朝から伝わってきた禅の宗派で、黄檗宗を一言で表すと、念仏と禅を結び合わせた念仏禅『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』)を行う宗派です。現在も読経は中国から伝わった当時の発音を継承しています。

中国の明時代の仏教儀式が現在も受け継がれ、読経は明朝時代の発音を継承し、禅宗の臨済宗や曹洞宗と比べて中国的な特徴を色濃く残していることが特徴として挙げられます。

当時の明の建築様式が残されている珍しいお寺でもあります。
※明朝:1368年~1644年まで存在した中国の王朝、明とも

黄檗宗大本山 萬福寺

境内の建物は明朝様式で造られ、昔の中国の寺院を感じさせます。

総門は中央が高く左右が一段低い中国式の牌楼(ぱいろう)という漢門で、屋根に摩伽羅(まから)というワニの神様が置かれています。
※摩伽羅(まから):ガンジス川を護る空想上の生き物   

総門をくぐりひし形の平石が綺麗に並ぶ道を歩くと三門があり、ここから清浄な空間になります。ひし形の平石は龍の背中の鱗をモチーフにしています。

しおりを見る限り、端を歩くのがいいようです。

拝観料は500円

三門

山門からは天王殿・大雄寶殿(だいおうほうでん)・法堂(はっとう)が一直線に並び、伽藍全体が左右対称に配置され、そのすべてが中国風の回廊で結ばれています。

萬福寺は、寛文元年(1661年)に創建されて以来、これまで焼失を免れてきたため、明朝様式の禅寺を知れる貴重な建物として世界的に知られています。
特に木造の明朝様式の建物が現在残っているのはここ萬福寺だけのようで、世界でも類のない建物なのだそうです。
※明朝:1368年~1644年まで存在した中国の王朝、明とも

山門の先には天王殿があります。日本の寺院では門にあたる山門の正面に本堂がありますが、中国の寺院では玄関にあたる天王殿が設けられています

天王殿(てんのうでん)には韋駄天と四天王と布袋様の像が安置されています。

布袋様は実在した人物で、いつも大きな袋を担いで国中を旅し、たくさんの貧しい人々に袋の中から必要な物を与え、救われた人から御礼に戴いた物を袋の中に入れ、再び行脚の旅に出かけたといいます。
布袋様は弥勒菩薩の化身として信仰され、現在でも中国や台湾では寺院の入口に祀られることが多く、参拝すると布袋様から徳を授かるといわれています。毎月8日は布袋様の縁日とされているようです。

四天王像

韋駄天像

Wikipediaでは以下のように説明されています。

韋駄天は、仏教において天部に属する神である。韋陀、韋天将軍とも言われる。増長天の八将の一神で、四天王下の三十二将中の首位を占める天部の仏神。特に伽藍を守る護法神とされ、中国の禅寺では四天王、布袋尊とともに山門や本堂前によく祀られる。日本の禅宗では厨房や僧坊を守る護法神として祀られる。また小児の病魔を除く神ともいわれる。密教の曼荼羅では護世二十天の一尊として西方位に配される。

その奥には本堂の大雄寶殿(だいおうほうでん)があります。

中には御本尊の釈迦如来座像とその両脇に迦葉(かそう)尊者、阿難(あなん)尊者が安置されています。

YouTubeでは紹介できなかった内容です。
迦葉(かそう)尊者:釈迦の十大弟子の一人で、衣食住にとらわれず清貧の修行を行い、仏教教団における釈迦の後継とされた。大迦葉、摩訶迦葉(まかかじょう)ともいわれる。
阿難(あなん)尊者:釈迦の十大弟子の一人であり、釈迦の侍者として常に説法を聴いていたことから多聞第一と称せられた。阿難陀とも。

大きな木魚がありますが、木魚も黄檗宗によって江戸時代に日本にもたらされたとされています。

両側には十八羅漢が祀られています。

日本では十六羅漢が有名ですが、「慶友(けいゆう)尊者」と「賓頭蘆(びんずる)尊者」を加えた十八羅漢も、明朝時代の寺院形式として受け継がれています。

お堂の入口にある椅子は、東インド会社から贈られたもので徳川家の葵の紋の隣に、東インド会社のエンブレムが描かれています。

実は江戸時代のものなのです。

お堂の柱にはチーク材という、鉄よりも固い木材が使われています。

また丸い座布団のようなものは座るためにではなく、膝をついて額を当てて礼拝するためのものです。

大雄寶殿(だいおうほうでん)の外観にも明の寺院の特徴が見られます。水色の七宝焼(しっぽうや)きも昔の中国らしさが感じられます。

戸には桃が刻まれています。桃は不老長寿が得られる果実であり、また邪気を祓うとされる桃が戸に彫られています。古来より中国では桃は、不死、再生、豊穣、長寿、招福の象徴とされてきました。
日本でも厄除けとしてよく瓦に載せられたり描かれることがあります。

近くにある法堂(はっとう)は説法を行う場所で境内でも主要伽藍で、卍くずしの勾欄(こうらん)が見られます。法隆寺や四天王寺に見られる奈良時代やその前の時代の意匠が、江戸時代に黄檗宗を通して改めてたらされたのだそうです。

石のタイルも日本にはない独特の様式に思えます。

巡照板(じゅんしょうばん)

巡照板(じゅんしょうばん)は起床と就寝の際に打ち鳴らすもので、境内の数カ所にあり、叩いて回るようです。

萬福寺ではお経が明の発音で唱えられ、般若心経も明朝の発音で唱えられています。

雲版(うんぱん)

雲版(うんぱん)は青銅製で、朝と昼の食事と朝課の時に打つものです。

雲版の奥にあるのが開梆(かいぱん)です。

開梆(かいぱん)は日常の行事や儀式の刻限を知らせるもので、木魚の原型とも言われています。

口の玉は煩悩にたとえた「あぶく」で、魚の丹田部分を叩きあぶくを吐かせることで煩悩から解放されよと説いており、また、魚は目を閉じないため、常日頃から目を開け、心の目も開け、修行に努めよと説いているのだそうです。
※萬福寺では背中に近い部分が叩かれていますが、一般的な禅宗の寺院では丹田部を叩くことが多いです。

チーク材を使った柱

チーク材は東南アジアが原産らしく、現在はインドネシアとミャンマーで輸出されているようです。

YouTubeでは紹介できなかった内容です。
硬く強靭で耐久性・耐水性があり、病害虫に強く、乾燥後は避け難く寸法が狂い難く、比較的加工しやすいという、適材で高価。
船舶用材、車両の内装材、建築用材・床材、家具に使われいます。
現在はインドネシアとミャンマーが輸出国として知られています。

始めの方でも書きましたが、これらの明朝様式の建物は現在萬福寺にしか残っておらず、世界でも大変貴重な建物です。萬福寺は寛文元年(1661年)に創建されて以来、これまで焼失を免れてきたため、明朝様式の禅寺を知れる貴重な建物として世界的に知られています。
※明朝:1368年~1644年まで存在した中国の王朝、明とも

灯籠も中国らしさがあります。

蛇腹天井(じゃばらてんじょう)という、龍のお腹を表した天井も黄檗宗ならではと思われます。
※蛇腹天井は黄檗天井ともいう

こうした瓦と壁の繋ぎ方も、独特なのではないでしょうか。

斎堂(さいとう)

食事をする場所です。

先程も書きましたが、古来より中国では桃は、不死、再生、豊穣、長寿、招福の象徴とされました。

境内には普茶料理を食べられる場所があります。

普茶料理は黄檗宗の精進料理で、テーブルの上の大皿に盛られた料理を、椅子に座って4人で取り合って食べるものです。油と粉を使って中国風に調理し、大皿に盛られた精進料理です。

萬福寺の創建と日本に与えた影響

黄檗宗の特徴と建物の見どころをざっとご紹介しましたが、萬福寺の創建についても触れておきたいと思います。

萬福寺は、寛文元年(1661年)に4代将軍徳川家綱が、宇治の土地を与えて開いた寺院です。当初3年の滞在予定だった隠元禅師を引き留め、住職になることを勧めて創った寺院と言われています。

隠元禅師が明からもたらした豆は今日インゲン豆として知られていますが、西瓜(すいか)や蓮根(れんこん)、孟宗竹(たけのこ)も隠元の来日により日本に普及したと言われています。
また木魚明朝体の書体400字詰の原稿用紙の規格も、隠元ならびに黄檗宗により日本にもたらされたと伝えられており、食材以外に美術、医術、建築、音楽、史学、文学、印刷、煎茶、普茶料理と、広範囲にわたり黄檗宗は日本の宗教や文化に影響を及ぼしました。

普茶料理:黄檗宗の精進料理。テーブルの上の大皿に盛られた料理を椅子に座って4人で取り合って食べるもの。
YouTubeでは紹介できなかった内容です。
「普茶」とは「普く(あまねく)大衆と茶を供にする」という意味を示すところから生まれた言葉です。中国で一般の家庭で食べる精進料理で、油と粉を使って多少中国風に調理し、大皿に盛られた料理を皆で取り合って食べる料理です

海禁政策、昔は鎖国と言われていましたが、が採られていた江戸時代に明から仏教の新たな宗派が日本に、しかも幕府の強い意向で入ってことには、当時の幕府の宗教政策と貿易政策に深い関係があるようです。

貿易を統制していた江戸時代、長崎には華僑と呼ばれる沢山の中国人が住んでいましたが、彼らの信仰を受けとめ、また葬儀を行う寺院や僧侶が足りていませんでした。それまでは長崎の日本の寺院の中に華僑の墓地が設けられていましたが、寺請制度が成立するとそれができなくなり、中国僧が開山した寺院でしか埋葬できなくなったようです。

そうした状況で長崎では、後に長崎三福寺(さんぷくじ)と呼ばれる興福寺・福済寺(ふくさいじ)・崇福寺(そうふくじ)をはじめとした寺院が急ぎ造られるようになります。これらの寺院は特定の宗派に属さず、広く華僑の信仰を受け止めたといいます。

当時高齢だった隠元禅師もそうした要望に応えるために来日したようですが、幕府としては本山が末寺を監督する寺社統制の一端を萬福寺が担うことを期待したかったようで、隠元の滞在を強く求め、京に華僑の寺院の大本山となる萬福寺を建てたと思われます。

幕府としては萬福寺に、華僑の寺院の本山となり末寺を監督する役割を期待したかったようで、隠元の滞在を強く求め、京に土地を与え華僑の寺院の大本山となる萬福寺を建てたのではないかと思われます。

鎖国や貿易統制という閉鎖的なイメージのある江戸時代に、中国から新たな宗派が日本に入って来た背景には、このような事情があったようです。
この辺りのことは調べ切れなかったので正しいのか分かりません。もし違うご意見があれば、コメントしていただければと思います。

話が少し反れますが黄檗宗に組み込まれた長崎の唐寺の僧たちは、飢饉が起きた時に各地で、施粥(せがゆ、もしくは、ししゅく)と言うのですが、お粥の炊き出しを行ったことが記録されています。
また萬福寺からも、宇治で薬を売って得たお金を、火災で被害を受けた人に使った僧侶を始め、名僧が幾人も輩出されたといいます。

これは旅の後から知り驚きましたが、明治時代に鎖国していたチベットに単独で足を踏み入れた川口慧海は、黄檗宗出身の僧でした。
※東京本所の五百羅漢寺の住職をしていた

ついでですが、帰国後に川口慧海が記した『チベット旅行記』は旅や冒険が好きな人も楽しめる本なので、お時間のある方は一読してみてはと思います。

萬福寺は京都の有名な寺院に比べてしまうと、知名度が下がってしまいますが、創建の経緯や明様式の建物、黄檗宗のスタイルや文化について知ると、興味が惹かれる寺院です。

平等院とそれほど離れていない(宇治駅の隣)ので、セットで参拝するのもお勧めかと思います。

参考文献

・『古寺巡礼 京都19 萬福寺』淡交社(2008年)

黄檗宗を分かり易く説明した本はなかなかありませんが、こちらは写真を豊富に載せてビジュアルで解説してくれます。

・竹貫元勝『隠元と黄檗宗の歴史』法蔵館(2020年)

学術書のような難しい本ですが、長崎の寺院も含めた黄檗宗について知れる一冊です。

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