【滋賀】三井寺(園城寺)の歴史(電車日本一周補完の旅8日目①)

滋賀県

今回は滋賀県大津市の名寺、三井寺をご紹介します。三井寺は天台宗の一派、天台寺門宗の総本山で、正しくは長等山園城寺といいます。
平安時代に比叡山延暦寺から分離独立した寺院で、長年延暦寺と抗争を繰り返し度々焼討を受け、その都度再興してきた寺院です。
そんな日本史や仏教の本に度々登場する三井寺を2022年の3月に参拝し、その後、調べて知ったことを紹介しています。
三井寺の近くにある、大津市歴史博物館や琵琶湖疏水、琵琶湖についてもふれていますので、どうぞごゆっくりご覧ください。

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三井寺の鎮守社 長等神社

三井寺をご紹介する前にまず、三井寺と関係の深い長等神社をご紹介しましょう。
長等神社は、三井寺を守護するために667年頃、天智天皇の頃に日吉社から須佐之男命(すさなおのみこと)大山咋大神(おおやまくいのみこと)を勧請した神社です。

始めは長等山の頂上に神さまが勧請されましたが、後(のち)の天喜2年(1054年)に庶民も参拝できるようにと現在の地に移されました。

三井寺の山号が長等山で、正式名称を長等山園城寺というのは、長等神社が三井寺の鎮守社(ちんじゅのやしろ)だからと思われます。
長等神社は明治時代の神仏分離で三井寺から独立しました。

境内には馬神神社があります。
古来より牛馬の守護神として信仰を集め、今日では馬券的中や出世の御利益があるとされています。
馬借が多数いた土地柄を感じさせます。

YouTubeでは紹介できなかった内容です。 
大津市歴史博物館の展示によると、馬上神社は江戸時代は大津宿の人の往来が激しい辻に祀られていたようです。
馬神神社のHPによると、その由緒は、
馬神神社は長等神社境内にある社で、古来より牛馬の守護神として、全国の三馬神社の1つである、と書かれています。
豊臣秀吉が信仰したとも伝えられているようです。
寛永年間に諸国に牛馬の悪疫が流行した時、神社の神札を諸国に領布したところ、悪疫が収まったと言い伝えられており、馬を扱う人々の信仰を集めたようです。
東北、関東、山梨、長野など牛馬の使用が盛んな所や、競馬関係者の参詣が、現在も多いようです。
最近では、競馬や乗馬の関係者、馬の愛好者、馬年生まれの方の参詣が増えており、遠方から足を運ぶ人も多いのだとか。

馬神神社については、三井寺の近くにある大津市歴史博物館で知ることができました。

寛永年間(1624~44)、大津宿で流行した疫病により、牛馬まで被害にあった。同社はこの疫病の退散を願って創建され、ここで売られる守り札馬の腹掛けが、馬の病気に効くという信仰が全国に広まった。なお現在は長等(三井寺町)境内に移築されている。

と書かれています。

こちらは馬神社(うまがみしゃ)の棟札(むなふだ)で、以下のことが書かれています。

大津宿の布田の辻(現在の浜大津へ向かう電車通りと京町通りの交差点)には、「人馬会所(じんばかいしょ)」と呼ばれる、旅人に馬や人足(じんそく)を提供する事務所があり、その一角に、馬神社(現在は三井寺町の長等神社境内に鎮座)が祀られていた。ここで発行される神札や、販売される馬の腹掛けは、馬の病気に効き目があるとして、東日本を始め全国的な信仰を集めた。そのため、馬神社の修理や改築には、大津の宿場役人や周辺の馬方などから資金が提供された。昭和2年9月の棟札には、大津市惣年寄を筆頭に、逢坂峠を越えた堰の山科郷役人も名前を連ねている。

三井寺の総門

さて総門から拝観料を納め、参拝します。
三井寺の正門は仁王門で、本来はそちらから参拝するのがいいのですが、この日は琵琶湖疏水を観てから三井寺に向かう時に、道を間違えてしまいました。
琵琶湖疏水のトンネルの向かって右に進むと仁王門に着き、左に進むと長等神社や総門に着きます。

三井寺は西国三十三所の第十四札所です。

石段を上ると、三十三所観音霊場の十四番札所の観音堂があり、ご本尊の如意輪観音が祀られています。


その近くには謡曲の三井寺に登場する観月(かんげつ)舞台があります。
我が子をさらわれた母親が観音様に必死にお祈りし、三井寺で再開を果たす演目です。
※謡曲:能の演目

舞台には上れませんでしたが、こここらは琵琶湖の素晴らしい眺めが見れるようです。

観音堂から少し上に上ると、見晴らし台と大津算盤の碑があります。
大津算盤については車石の記事で紹介しましたが、少し補足しておきます。
片岡庄兵衛が明の算盤に触れたきっかけは、長崎奉行に随行して長崎に行ったことでした。そして算盤を改良して販売すると、江戸幕府から算盤の家元に任命され、大津算盤の名を全国に広めました。
しかし、明治になると鉄道開通による立ち退きなどの理由で廃れてしまいました。
現在は播州算盤が生産高8割を占めていますが、これは豊臣秀吉の三木城攻撃の際に、大津に避難してきた人々が技術を習得し持ち帰ったものと言われています。

高台からは琵琶湖と境内を見渡せ、いい景色を楽しめます。

観音堂と舞台の間には鐘楼があり、中に入ることができました。

一般的に鐘楼は「しゅろう」と言われることもあるようです。
入口の説明板には江戸時代の文化11年(1814年)に上棟されたもの書かれています。

鐘楼の中に入ったことがなかったので、これはとても有難かったです。
後ほどご紹介する経蔵も中に入ることができ、三井寺では大変有難い体験をすることができました。

観音堂や舞台のあるこの辺りは境内の西の端になるので、本堂のある東に向かいます。

本来は仁王門から進み、金堂、三井の晩鐘、閼伽井屋、弁慶の引き摺り鐘、一切経蔵、三重塔、灌頂堂(かんじょうどう)を参拝し、離れた観音堂に行き下山するルートで参拝するのがいいようです。
この日は長等神社に参拝してから三井寺に入ったので、反対のルートで参拝しました。

三井寺の歴史

三井寺、正しくは長等山園城寺は、天台宗の一派、天台寺門宗の総本山です。
古くから、東大寺・興福寺・延暦寺と並び日本四箇大寺(しかだいじ)に数えられ、大きな力を持った寺院です。
比叡山延暦寺での派閥争いに負けた僧たちが下山して、この地で天台寺門宗を興し独立したため、延暦寺とは仲が悪く、度々焼討を受けました。

三井寺は智証大師と呼ばれる円珍と深い関係のある寺院です。
円珍は最澄が唐で学びきれなかった密教を唐に行き学び、多くの経典を持ち帰り、天台宗の発展に大きく貢献しました。
そのため円珍の弟子が延暦寺で高い位を占めるようになり、それに反発した円仁の弟子らと対立し、円珍の死後、円珍の弟子ら勢力争いに負けて山を下り、三井寺に籠り独立しました。
※円仁:円珍の師で、円珍よりも先に唐で密教を学んでいる

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円珍の尖った三角形の頭は、親しみを込めておにぎり頭と言われることがありますが、性格も親しみやすいものだったようで、その交友関係の広さが評価されています。
唐に留学した時も現地の様々な人たちと交流し、その広さは留学僧で一番だったと言います。そうした人柄だったためでしょう、円珍が将来した(日本に持ち帰った)仏教関連の品々は、留学僧一多かったと言われています。

三井寺の寺門派と延暦寺の山門派は長年に渡り抗争を続け、山門寺門の争いと呼ばれました。
旅をする前に個人的に興味があったのが、三井寺が幾度も焼討されてもその度に復興し、存続したことでした。
この近くの琵琶湖の堅田では、室町時代に親鸞が活動し、浄土真宗の門前町がありましたが、延暦寺の焼討で消滅しました。
中世の延暦寺の力はそれほど強いものでしたが、三井寺はそれに屈しませんでした。

三井寺にそれほどの力があったのは、時の権力者に保護され、経済基盤を持っていたからです。
平安時代後期は藤原道長とその子頼通(よりみち)の庇護を受け荘園が寄進されました。

源頼朝や足利尊氏にも保護され、室町時代は逢坂の関を支配し関銭を徴収し莫大な利益を得ました。
全国の寄進された荘園だけでなく、大津の逢坂の関という物流の要衝も押さえていたことからは、いかに幕府が三井寺を厚遇し、三井寺の力が大きかったのかが分かります。
車石の音声解説動画で紹介した東海道の横木町の辺りも、かつては三井寺の領地でした。三井寺の寺領は、如意ヶ嶽から鹿ケ谷、山科に及ぶほど広大なものだったのだそうです。
今谷明『近江から日本史を読み直す』

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熊野詣で知られる熊野三山のトップである検校は三井寺の僧から任命される決まりがあり、熊野三山は平安時代、三井寺の勢力下にありました。

三井寺が権力者に保護され経済基盤を持てたのは、政治に利用されたからでした。
延暦寺の強すぎる力を牽制するために、時の権力者が三井寺に肩入れしたのです。
山門寺門の争いは時の権力者の代理戦争でもあり、藤原道長は朝廷の一部の勢力を抑えるために、鎌倉幕府や室町幕府は朝廷そのものを抑えるために延暦寺と距離を置き三井寺を保護しました。

延暦寺の天台宗と三井寺の天台寺門宗とには、仏教の教義上の大きな違いはないといいます。
どちらが正しい仏の教えなのかを巡る争いではなく、利権や政治、権力を巡る争いが両派の間で繰り返されたのでした。

そのため三井寺は戦乱に巻き込まれることがあり、源平の争乱では源氏に味方したため平家の攻撃を受け、南北朝の動乱の際には南朝から攻撃を受け、境内が焼かれました。

かと言っていつも敵対していたかと言えばそうではなく、室町時代に三井寺と南禅寺が争った南禅寺楼門事件では、延暦寺が三井寺に味方しました。目まぐるしい勢いで勢力を伸ばしていた南禅寺に危機感を覚えた延暦寺が、不仲の三井寺と協力し禅宗の台頭を抑え込みました。
このことからも当時の寺社勢力の抗争は利権を争うもので、戦国武将のように敵味方がその時々で変わったことが分かります。

禅宗の台頭については、天龍寺の記事(準備中)で紹介しています。そちらも是非ご覧ください。

仏教の教えをや仏像・寺院建築の鑑賞とは程遠いですが、そんなことを考えならが寺院を参拝するのも面白いものです。

三井寺の境内は明治時代に寺領が没収され縮小しましたが、それでも境内を歩くとその広さを実感し、かつて大きな力を持っていたことが感じられます。

三井寺文化財収蔵庫

本堂に向かう道には、三井寺文化財収蔵庫があります。

十一面観音立像や智証大師坐像などを観れますが、桃山絵画の最高傑作の一つと称される狩野光信(みつのぶ)の障壁画が印象的でした。
障壁画といえば、いかにも武家文化らしさがありますが、こうしたものが寺院にあったのも、興味深いものです。

また微妙寺という、かつては別の土地にあった三井寺の別所があります。
廃寺になり戦後この地に移されました。

本堂 金堂・三井の晩鐘

さて、本堂の金堂にやって来ました。
近くに三井の晩鐘(ばんしょう)があります。音色が優れていて、古来より平等院と神護寺とともに日本三名鐘の一つに数えられいます。
音の三井寺、形の平等院、銘の神護寺と称賛されてきたようです。

本堂は、慶長4年(1599年)に北政所により再建された建物です。
幾多の法難に遭い、伽藍の消失と再建を繰り返してきたことが書かれています。

度重なる焼討により三井寺には、江戸時代に他の場所から寄進され移築された建物を除き、室町時代以前の堂塔が残されていません。
これこそ三井寺の歴史をよく表しており、三井寺の特徴に思えます。

閼伽井屋

本堂の金堂の近くには閼伽井屋(あかいや)があります。
閼伽とは仏さまにお備えする水のことで、湧き水の出る霊泉です。
この霊泉が天智・天武・持統天皇の産湯に用いられたと伝えられて、御井とれ、「御井の寺」と呼ばれたのが三井寺と呼ばれるようになった所以と言われています。

熊野権現

その近くには熊野権現社があり、円珍が大峯・熊野三山で修行をした経緯から、平治元年(1159年)に、熊野権現を勧請し三井修験道の鎮守神とした、と書かれています。
※建物は天保8年(1837年)の再建

延暦寺に千日回峰という厳しい修行があるように、三井寺でも古来より厳しい修行が行われ、三井寺は三井修験の根本道場でした。
読んだ本によると、西国三十三所巡礼は三井寺から始まったと書かれていました。
※出典:『古寺巡礼近江』『週刊古寺』

延暦寺による焼討が度重なるなかで三井寺の修験者たちが復興の勧進をするために、円珍ゆかりの観音霊場を行脚したのが、三十三所巡礼のきっかけとなり、その後広まったというのです。

YouTubeでは紹介できなかった内容です
三井寺は鎌倉幕府と密接な関係だったため、三井修験を中心に形成された西国三十三所巡礼は関東に普及しました。
頼朝の時代に始められ、京都の貴族文化に憧れる実朝の下でさらに盛んになり、秩父三十三所巡礼ができたとのだそうです。『古寺巡礼近江』より。

弁慶の引き摺り鐘

そして少し坂を上ると弁慶の引き摺り鐘があります。
延暦寺の焼討を受けた際に、武蔵坊弁慶が三井寺の鐘を奪い引き摺って延暦寺に持って行き、崖から落とし、その時の傷が残されていると伝わる鐘です。

隣には弁慶の汁鍋という、武蔵坊弁慶が所持していたと伝わる大鍋が展示されています。

延暦寺の焼討の際に、弁慶が三井寺の鐘を奪い取った時に残していったものと伝えられています。
江戸時代のガイドブックに紹介され、三井寺を参詣した当時の江戸時代の人々がこの鍋を観たことが書かれています。

弁慶の鐘も鍋も延暦寺の焼討という災難を、参詣者を集めるために使っているのが面白いです。
本堂と観音堂の間に売られている弁慶力餅も同じで、江戸時代に売られ三井寺の名物とされました。

弁慶力餅はこちらで紹介しています↓

【滋賀】三井寺名物 弁慶力餅 | 四季を気ままに (shikikimama.com)

災い転じて福となす、と言うのか、抜け目ないと言うのか逞しいと言うのか、適切な言葉が見つかりませんが、こういうのは人間らしさがあって好感を持てます。

鐘の説明には
幾多の災厄を乗り越えてきた霊鐘で、武蔵坊弁慶のように困難に立ち向かい、未来への勇気を授かるとされている、
と書かれています。

現在は三井寺と延暦寺とに過去の確執はなく、ともに仏教発展に向けて歩んでいることも、旅が終わってから読んだ本には書かれていました。
※出典:『週刊古寺』

一切経蔵

さて、その奥には一切経蔵があります。

江戸時代初期に毛利輝元により、山口の寺にあったものが寄進されました。

花頭窓(かとうまど)や波形の格子が印象的です。

室町時代初期の建築で禅宗の経蔵を知れる遺物で、八角形の回転する蔵や、屋根の八方に破風を起こしているのが特徴です。

経蔵の中に入ったことがなかったので、とても有難い体験でした。

唐院

経蔵の隣には唐院という円珍の御廟があり、こちらは境内で一番神聖な場所です。

三重塔は奈良の比蘇寺にあった塔が秀吉により伏見城に移築され、家康によってこの地に寄進され移築されたものです。

室町時代に造られたもので中世の仏塔の特徴を表しています。

灌頂堂は師が弟子に密教を伝承する場所です。大師堂の拝殿としての役割も備えているようです。

そして正門の仁王門から境内を出て、三井寺の参拝を終えました。

三井寺は自然が豊かで境内が静かな場所でした。

映画やドラマでロケにも使われることもあるようです。

大津市歴史博物館

三井寺を参拝した後は、近くにある大津市歴史博物館にお邪魔しました。

この土地は江戸時代までは三井寺の寺領で、博物館の入口から見える大津市商業高校と近くの大津市市役所も、かつては三井寺の領地でした。

博物館は入館料が330円と安く、展示が充実していて大津の歴史を幅広く知ることができ、個人で楽しむ範囲内で撮影もできてと、とてもいい博物館でした。

有り難いことに、こうしたフリーの解説もいただけました。

展示の内容は、かつて飛鳥時代に都のあった大津宮や中世に比叡山延暦寺の門前町として発展した坂本、琵琶湖の船を支配した堅田、宿場町・港町・三井寺の門前町として東海道一の繁栄を誇った大津百町、家康により城下町として発展した膳所と、時代時代により異なる発展を遂げた大津の町を知ることができました。

大津名物として知られていた大津絵や大津算盤、大津針などの文化も知ることができ、充実した展示でした。

大津算盤

大津絵

大津絵から発展した大津人形

江戸時代東海道で売られていた菓子

大津針

興味深い展示

明治から大正にかけて、地方から東京や京都・上方見物に出てきた、おのぼりさんの団体は、迷子になってもひと目で分かるように、みな赤い毛布をマントのようにまとっていた。当時、彼らは「赤ゲット」(赤いブランケットの略)と呼ばれていた。
と書かれています。

逢坂の関

琵琶湖疏水

琵琶湖の治水と洪水

エントランスホールにある大津絵の説明

博物館の近くにある大津絵の道

大津祭でまかれる厄除け粽(ちまき)

YouTube

動画でも紹介しています。どうぞご覧ください。

参考文献

今谷明『近江から日本史を読み直す』

『古寺巡礼近江三井寺』

『週刊古寺をゆく三井寺』

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