【奈良】世界遺産薬師寺(日本一周補完の旅3日目③)

奈良県

今回は世界遺産の古都奈良の文化財の一つに登録されている薬師寺をご紹介します。薬師寺は法相宗の大本山で、法相宗は現存する最古の仏教の宗派です。奈良時代から続く薬師寺の魅力を、旅をして知ったことを紹介していきたいと思います。旅をしたのは2022年の3月です。

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薬師寺へ

前回の続きです。近鉄郡山駅から電車に乗り、二つ先の西ノ京駅に向かいます。車窓からは郡山城の石垣が見えます。

西ノ京駅で降り、薬師寺に向かいます。

世界遺産薬師寺の基本情報

まず薬師寺に参拝する前に、簡単に薬師寺の説明をします。薬師寺は680年に天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して藤原京に発願した寺院です。一度藤原京で建てられましたが、藤原京から平城京に遷都する際、それにともない移転してきたお寺です(移転と言っても、建物は一から建てられたようです)。

薬師寺は法相宗の大本山で、法相宗は現存する最古の仏教の宗派です。三蔵法師で知られる玄奘三蔵がインドから帰国した後、その弟子により中国で開かれた宗派です。日本では、道昭が唐に留学した際、玄奘三蔵に師事し、帰国後に法相宗の教えが広められました。法相宗は南都六宗の中で一番勢いがあり、同じ宗派の寺院に興福寺があります。

薬師寺のすごさ

ついでに薬師寺のすごさも書いておきます。薬師寺のすごさは「復興」にあると個人的に思います。薬師寺は南都七大寺の一つに数えられる大寺院でしたが、火災や兵火で東塔を除く全ての建物が焼失し、明治時代には神仏分離と廃仏毀釈で荒廃しました。

境内の荒廃は酷く、金堂の屋根は崩れ、陽の光や雨が本尊の薬師如来像にあたる有様だったといいます。御本尊を祀る金堂がそういった有様でしたから、他のお堂はもっと荒廃していたことが想像されます。

そのような状態でしたが、戦後に管主だった高田好胤和上が大復興事業に取り掛かり、全国を行脚して般若心経の写経勧進をし、復興資金を集めました。修学旅行で多くの学生が来るようになると、薬師寺のお坊さんによる分かりやすい話は有名になり、徐々に参拝者が増え、多くの苦労を重ね、現在では金堂・講堂・西塔をはじめとした堂宇が再建されています。『空海最澄どっちが偉いのか?』(島田裕巳著)によると、写経は薬師寺が始めたとのことです。

境内が荒(すさ)んだ状態から復興したところに薬師寺のすごさがあります。

與樂門と南門

さて、さっそく薬師寺の建物の見どころを観ていきましょう。

薬師寺は駅から近く、2、3分で入り口の與樂門(よらくもん)に着きます。下の写真は西ノ京駅から出口に出た時に観える景色ですが、左に進むと與樂門に着きます。

ですが、右の踏切を渡って少し離れた南門から入るのがおすすめです。

南門からだと西塔(さいとう)と東塔(とうとう)が並んでいるのを目にすることができます。

薬師寺は塔が二つあり、それが東西に並んでいるのが特徴です。回廊の中に東西二つの塔を配置したのは薬師寺が初めてで、そのような寺院建築を「薬師寺式伽藍配置」といいます。

塔が二つあるのは、「釈迦八相」を表しているからです。釈迦八相とは、お釈迦様が苦行を行ったり、悟りを開いたり、入滅したりといったお釈迦様の生涯の重要な場面を表した八つの場面をいいます(法隆寺の夢殿でも解説しています)。塔の内部の四方向にその場面を彫り、二つの塔で八つの場面を表しています。

そして中門にはカラフルな二天王像が立っています。

おそらく創建当初の色合いでしょうが、色を楽しめるのも薬師寺の特徴です。

というのも、薬師寺の建物は戦後に再建されたものが多いので、創建当初のお寺の姿を知ることができるのです。

薬師寺與樂門(よらくもん)

拝観料は金堂や三重塔を観れる券と(法相宗の開祖と言われ三蔵法師のモデルとなった)玄奘三蔵の遺骨の一部を納めた玄奘三蔵院伽藍と、阿弥陀三尊浄土図を観れる食堂と、東塔の水煙を観れる西僧坊(にしそうぼう)との共通券で1,100と、こちらも千円を超えるので、できれば時間をかけてゆっくり参拝したい所です。

拝観料を払い中に入り左に進み、

右に曲がると無料休憩所があります。

休憩所には巨大な台湾檜の展示があります。樹齢2500年の台湾産のヒノキで平成5年に寄進されたものですが、講堂の再建に使われたことが記されています。

現在は(平成3年より)自然保護のため台湾では木材の輸出が禁止されていますが、それ以前は輸出されていて、日本の寺院の再建や改修に台湾産の檜が使われていました。日本の檜は平城宮跡の再建で使い切ってしまっているので、現在の寺院の木材はカナダやアフリカなどの海外からの輸入に頼っています。

御本尊である薬師如来の台座の模型もありました。

写真が見切れていますが、上にはギリシャの葡萄唐草(ぶどうからくさ)文様とペルシャの蓮華文様が彫られています。

真ん中のユニークな絵はインドの力神(蕃人・ばんじん)が彫られており、その下には中国の四方四神が彫られています。シルクロードを渡っていろいろな国の文化や思想が伝えられてきたことが分かるものと解説されています。

休憩所を出て右に進むと、西僧坊と食堂が右手にあり、左手に講堂の出口があります。

手前が食堂、奥が西僧坊

左は講堂の出口

共通券で西僧坊と食堂の展示を観ることができます。

まずは西僧坊へ

東塔の水煙

西僧坊(にしそうぼう)では東塔で使われていた水煙が展示されています。実際に目にするとその大きさに驚きます。法隆寺の五重塔の相輪の重さが3トンなので、薬師寺のもそれに近い重さがあると思うのですが、最上部の屋根が風で飛ばされないようにしっかり押さえ、塔を守るためにはそれほどの重さが必要だということが分かります。

檫管(さっかん)と呼ばれる柱(下記参照)には、薬師寺が天武天皇が発願し持統天皇が造営を引き継いだという薬師寺の創建が記されていますが、最古の記録と説明されています。

東塔は「凍れる音楽」と称されていますが、一瞬にして凍ったかのような、時が止まった様子からそう呼ばれるようになったといわれています。フェノロサが言ったと昔は言われていましたが、現在では違うとされています。

相輪の各部の名称と意味が解説されています。こうして見ると、相輪にもいろいろな意味があることが分かります。

一番の上の宝珠(ほうじゅ)は古代は仏舎利を納める容器で、その下の竜舎(りゅうしゃ)は貴人の乗り物を表し、水煙には塔を災いから守り祈りが込められており、火焔文様の物が多いそうです。

久輪(くりん)の「九」という数には永遠、尊いといった意味があり、九輪の内側の檫管(さっかん)は塔の中心を貫く心柱を金属で包んだもので、創建の経緯が刻まれています。

相輪(奈良時代)

檫管(奈良時代)

丸瓦(奈良~平安時代)

凝灰岩の基壇石(奈良時代)

頭貫止め釘(奈良時代)

大斗

西僧坊の隣にある食堂には、阿弥陀三尊浄土図と仏教伝来の道の説明がありました。

さて、境内の建物を見てみましょう。

金堂

回廊の中に入ると、御本尊を祀る金堂があります。金色の鴟尾(しび)、グレーの瓦、白い壁、朱色の柱、緑色の格子が、奈良の色合いを出しています。

奈良を表す「青丹よし」の枕言葉は、緑色の顔料の土で作られた瓦を指すと言われ、魔除けのために塗られた朱色を映えさせるいい色合いを出しています。

ついでに、「青丹よし」は諸説あり、緑色の格子を青とし、それと朱色を指しているいるとも、緑色の奈良の自然景観と朱色の奈良時代の建物を指しているとも言われています。

薬師寺は金堂に祀られている御本尊の薬師如来が評判です。薬師寺創建当初より金堂にお祀られている御本尊で、享禄の兵火(1528)により金堂が焼失したなか、薬師三尊は光背を焼失するも当初の造形を残しています。中央に薬師如来、向かって右に日光菩薩、左に月光がっこう菩薩が安置されています。

薬師如来は正式には薬師瑠璃光如来といい、東方に位置する浄瑠璃浄土の仏様で、人びとの病気や災難を除き、健康と幸福を与える仏様として信仰を集めています。薬師如来の左右に立つ日光菩薩、月光菩薩は、太陽や月の光が差別なく照らすように人びとを見守る仏様です(薬師寺のHPより)。

表面を覆う金が剥がれていますが、銅が黒光りする様が美しく、多くの参拝者に人気の仏像です。

薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により飛鳥の藤原京に造営され、平城京遷都にともないこの地に移築されました。

金堂は昭和51年(1976)に再建されましたが、それまでは、戦後までは廃寺同然だったと言われています。享禄元年(1528)の兵火で金堂が焼失した後、70年程雨曝しのままで慶長5年(1600)に仮金堂が造られましたが、復興するまで仮金堂の屋根が崩れ、薬師如来像に太陽の光や雨が当たる状態だったそうです。

終戦後に住職の方が全国を回り般若心経の写経を浄財とし再建し、また修学旅行で訪れる学生たちに魅力的な話をし、人気を集めたといいますが、その道のりは長く相当大変だったことが想像できます。

講堂

金堂の奥に講堂があります。

御本尊を祀る金堂よりも講堂が大きいのですが、これは教学を重視し、講堂に大勢の僧侶が集まって経典研究に励んだためとされていて、奈良仏教の特徴といわれています。奈良時代は南都六宗すべての教学を学ぶ「六宗兼学」が各寺院で行われていたといいます。

平成15年(2003)に創建当初の規模で再建され、現在は弥勒三尊像を安置しています。

東塔

そして薬師寺といえば、東塔が人気です。

東塔は養老5年(721年)の奈良時代前期に建てられ、薬師寺で唯一、創建当初から残っている建物です。六重塔に見えますが、構造は三重塔です。1階と3階と5階に裳階(もこし)と呼ばれる飾り屋根があり、屋根の大小のバランスが何とも美しい塔です。

法隆寺の五重塔が力強さを特徴とするのに対し、薬師寺の三重塔は力強さに優美さを兼ね備えているのが特徴といわれ、法隆寺の五重塔よりも薬師寺の東塔の方が人気があるといわるほどです。

この美しい東塔は、平安時代に藤原道長によって造られ、当時の多くの貴族を感嘆させた法成寺(ほうじょうじ・現在は焼失して残っていない)の三重塔のモデルとなったとも伝えられています。それだけ創建当初からその美しさが称えられてきた建物なのです。

また、白鳳様式(大化改新から平城京が遷都するまでの時期)の東塔は、平城宮の朱雀門や太極殿(大極殿)などの宮殿建築の復元の際に参考にされたといいます。

日本では時とともに枯れていく姿をよしとし、修復の際も古い姿をなるべく残すように枯淡(こたん)な色にしている寺が多く正に東塔がそうなのですが、他の新しい建物は創建時の姿を復元して明るい色彩になっています。

西塔

昭和56年(1981)に再建された西塔は、奈良を表す「青丹良し」の色合いを観ることができます。

鮮やかな色に再建されていますが、これは仏様の住む世界は本来、金色に輝いているのだからそれを表現すべきという、韓国や東南アジアでの考え方で、向こうでは再建や改修の度に色を塗り直し、それこそが仏教本来の教えだとしています。

戦後に再建された薬師寺の建物には、そうした考え方も含まれているような気がして、古い東塔と新しい西塔を見比べるのも、このお寺の見どころの一つなのではないかと、個人的に思います。

昔は、「新しい建物は価値がなく、創建当初から残っている建物こそが価値がある」なんてことを思っていましたが、再建された建物は創建当初の姿を教えてくれる訳で、それはそれで見どころがあるものです。

2015年の電車日本一周の時のもの

回廊の外には鎌倉時代に造られた東院堂があります。日本最古の禅を行うお堂です。薬師寺は南都六宗のお寺ですが、奈良時代の南都六宗は兼学が盛んで他の宗派の教えも積極的に学びました。境内に禅のお堂があるのも奈良仏教らしさを表しています。

時間が無くなってしまったので、玄奘三蔵院伽藍に行くのは諦めました。南門の近くには薬師寺を守護する休ヶ岡八幡宮(やすみがおかはちまんぐう)があり、こちらも気になります。平安時代前期の寛平年間(889~898)に大分県宇佐八幡宮から現在地に勧請された神社で、旅の後から知りましたが、薬師寺を参拝する際は、まず休ヶ岡八幡宮から参拝することが習わしとされているようです。

薬師寺も拝観料は共通券だと千円を超えるので、せっかく参拝するのであれば半日くらいかけてゆっくりと境内を観て回りたい所でした。

薬師寺の後は唐招提寺に向かいます。次回に続く

薬師寺はYouTubeでも紹介しています。こちらも是非ご覧ください。

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