この記事では昭和前期を中心とした近代の相川鉱山の遺構と、当時の時代背景を書いています。
相川郷土博物館
坂を下りると、佐渡奉行所の近くに北沢地区施設群という、選鉱や精錬を行っていた場所があります。
手前に相川郷土博物館があり、こちらでは鉱山に関係する資料から相川の考古、民俗、鉱物など幅広い展示を楽しむことができました。
※2023年12月現在 臨時休業中です
博物館では水上輪(おそらく複製)、てへん、灯りの金具、無宿人の墓・遊女の墓の写真、火力発電所や水力発電、部屋労働についての展示があり、勉強になりました
北沢地区施設群
北沢地区は佐渡鉱山全体の一大拠点で、金銀生産ラインの最終工程を受け持つ精錬所や選鉱場などの施設があった場所です。
明治から昭和にかけて、当時最先端の選鉱・精錬技術がここで実用化されました。
昭和12年(1937年)には国策で増産体制が採られ、施設の大改修が行われ、昭和27年(1952年)まで操業を続けました。
鋳造工場跡
こちらは鋳造工場跡で、様々な種類の機械部品が造られ、各作業場に運ばれました。
鋳造工場の他に修理工場などもありました。
50mシックナー(泥鉱濃縮装置)
円形の建物は50mシックナーと呼ばれる泥鉱(でいこう)濃縮装置です。
泥状の金銀を含んだ鉱石と水を分離させる施設です。
分離した鉱物を向かいの選鉱場に送り、また水を選鉱場に送り不足した工業用水を補いました。
直径50mの規模は国内でも最大でした。かつては大小さまざまなシックナーが存在していたそうです。
北沢浮遊選鉱場跡
シックナーの向かいにあるこの大きい建物は、北沢浮遊選鉱場(きたざわふゆうせんこうば)跡です。
昭和15年(1940年)に造られ、現在は屋根等が撤去され土台だけが残されています。
粉砕した鉱物を浮遊剤の入った水槽の中に入れて金銀を浮かべて、泡に吸着させて回収した工場です。また金銀の絞りかすからさらに金銀を回収していたようです。
1ヵ月に5万t以上もの鉱石処理をし、技術面で世界的にも画期的な施設で、その規模は東洋一を誇りました。
シックナーと選鉱場は昭和の大量生産を支えた遺構です
石炭火力発電所跡
選鉱場の隣にあるのは、石炭火力発電所跡です。
明治40年(1907年)に建設されたもので、スチームタービンが運転開始されたことでそれまでの精錬所の蒸気機関が電動機に替わりました。
昭和期に鉱石が増産された時代背景を補足すると、
昭和12年(1937年)に日中戦争が始まると、政府は戦争に必要な物を外国から輸入するために、支払いに必要な金銀を生産するよう各地の鉱山に命じました。
佐渡鉱山でも多くの施設が建設され、金銀の増産に乗り出しました。
上流の鉱山付近では大立竪坑(おおだてたてこう)の櫓が木造から鉄骨に変わり、高任地区にはさまざまな機械を使った粗砕場が建てられましたが、この北沢地区では50mシックナーや浮遊選鉱場が建設されました。
これらの施設の建設により金銀の生産は増加し、浮遊選鉱場のできた昭和15年(1940年)年には佐渡金銀山の歴史の中で最も多い金を生産しました。
※年間1,538㎏の金を生産した
出典:新潟県のHP 新潟県観光文化スポーツ部文化課 世界遺産登録推進室
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その後、日本が戦争の泥沼にはまり国際社会から孤立すると、代金決算手段としての金の価値は薄れ、戦争に重要な資源である銅、鉄、亜鉛、石炭の増産・確保が優先されるようになり、佐渡鉱山でも銅の採掘が増え、金の採掘が減少しました。
明治大正昭和の鉱山遺構の方も見ごたえがありました。
世界遺産に推薦されているのは江戸時代の遺構のみですが、これは戦時中に朝鮮人労働者が大量に動員されたことや部屋制度というタコ部屋に似たことが行われていたことへの配慮かと思われますが、ですが近代以降の遺構も見どころが多かったです。
※タコ部屋については北海道の開拓の歴史でふれます
江戸時代の坑道から明治以降の坑道を歩き、昭和の遺構を観るといった具合に、時代の変遷を感じながら歩けるので散策を楽しめました。
相川金銀山の魅力は、当時の最先端技術が集結した場所だというところにあるのかと思います。
江戸 明治 大正 昭和とその時代時代の最新技術や機械が国内外から持ち込まれ、当時の一流の頭脳が集まり、相川で使われ、改良され、技術が蓄積しました。
その技能や頭脳は各地に広がり、相川は炭鉱技術を育てた場所とも言えると思います。
江戸時代に使われた水上輪が農業に転用されたように、いろいろな鉱山技術が他分野にも応用されたと思われます。
旅の後で知りましたがその一つに、たらい舟がありました。
たらい舟はアワビやタコ、ワカメなどの漁に使われましたが、江戸時代に鉱山で大量に桶が使われたことで島内の桶職人の技術が向上し、それが舟に転用され、明治初期に漁に使われるようになったのだそうです。
※佐渡市HP 佐渡金銀山より
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そんな見どころの多かった相川金銀山ですが、日帰りは無理がありました。
6時間半の滞在時間がありましたがあっという間に時間が過ぎてしまい、遺構は半分くらいしか観れなかったと思います。
佐渡奉行所から相川鉱山への道に京町通りという江戸時代の名残りがある場所や、無宿人の墓地、周辺の寺社を観れませんでしたし、浜辺の方にある明治期以降に鉱石の積み出しが行われた大間港跡も観れませんでした。
相川金銀山はあくまで佐渡の鉱山の一部に過ぎず、他にも西三川金山や鶴子(つるし)銀山などもあり、そちらにも史跡があります。
また佐渡の南の宿根木(しゅくねぎ)や小木港にも史跡があります。
※宿根木は鎌倉時代以降、直江津などと結ばれていた港町
小木港は江戸時代、佐渡で鋳造した小判を江戸に運んだ港
せっかく訪れるなら一泊してゆっくり散策するのがいいのかと思います。
ここまでご覧いただきありがとうございます。皆さんの佐渡の旅や散策のお役に立てれば嬉しいです。
参考文献
『《新版県史》15.新潟県の歴史』山川出版社(2009年)
『図説新潟県の歴史 図説日本の歴史 (15)』河出書房新社(1998年)
磯部欣三『佐渡金山』中公文庫(1992年)
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