【新潟】新潟を発展させた大正期の大偉業 大河津分水(旅13日目)

新潟県

今回は新潟県長岡市にある大河津分水路をご紹介いたします。
現在、新潟市は商工業が発展し、国内有数の穀倉地帯を抱える、日本海側唯一の政令都市です。
しかし大正時代までは洪水が度々起こる水害常襲地帯で、ろくに米も育てられず、飲み水も確保できない、人が住むには厳しい土地でした。

住民たちの生活を守るために信濃川(日本一長い川)の水を日本海に流す分水路が大正時代に造られ、それにより下流域では水害が格段に減り、人々が安心して住めるようになりました。
現在の新潟市の発展はこの大河津分水を抜きには語れません。

今回はこの大河津分水を歩き、分水路が完成するまでの苦難に満ちた工事の歴史と、新潟が洪水に苦しみそれを克服し、発展した歴史をご紹介します。

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新潟の水害の歴史

2022年の4月に新潟を南から北へ縦断しました。
富山駅から新潟駅に向かいましたが、その途中、長岡市にある大河津分水を観に行きました。

大河津分水を知ったのは、8年前に電車日本一周をした時に新潟の水害の歴史を知ったのがきっかけでした。新潟市歴史博物館みなとぴあに行った時に、新潟市がかつて水害常襲地帯だったことを知りました。

昔は燕市や新潟市では信濃川が3、4年に一度氾濫し、洪水が起こると溢れた水が溜まりました。
日本海側に角田(かくだ)・弥彦山地新潟砂丘があり高い土地に囲まれたこの地は、ひとたび洪水が起きると溢れた水が行き場を失い、信濃川流域の燕市や新潟市に溜まったのです。
本来、農業などまともにできない土地でしたが、人々は生活のために腰まで泥に浸かり米を育てました。

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博物館で胸までだったと思いますが、泥水に浸かりながら農作業をしている女性の写真を見て、現在の米どころ新潟との違いに衝撃を受けましたが、そこまで苦労して育てた米はあまりの不味さに鳥さえも食べない「鳥またぎ米(まい)」と呼ばれていたことを後日知り、更にショックを受けました。

そんな新潟が、越後平野が日本有数の穀倉地帯となり、新潟市が人口70万人を超える日本海側唯一の政令都市となれたのは、大河津分水が造られたお陰と言っても過言ではありません。
※新潟市HP 推計人口 令和5年9月1日現在

そんなことを知ってから、新潟を旅する機会があれば大河津分水を一度観ておきたいと思っていたところ、2022年4月に旅する機会に恵まれ、立ち寄りました。

大河津分水路 JR越後線 寺泊駅‐分水駅から見える大河津分水路

奥に見えるのが角田・弥彦山地

分水駅(JR越後線)から大河津分水へ

分水駅は無人駅です。

電車は数時間に一本しかなく、アクセスに関する限り、電車の旅では決してお勧めできない場所です。

駅から30分ほど歩き大河津分水と資料館に向かいます。

この場所は大河津分水と信濃川の間で、大正時代に分水路ができるまでは洪水の度に水が流れ込んでいた場所です。

地図上の場所

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各所の説明① 大河津分水の可動堰

堤防に上がると、大河津分水が見えます。

上流から流れてくる信濃川の水を日本海に逃がしています。信濃川が日本海に一番近づくこの場所に分水路が造られました。

橋の先には分水路の可動堰(かどうぜき)があります。
可動堰は分水路の水量を調節するものです。

魚が休みながら移動できる魚道(ぎょどう)が設けられています。

平常時はゲートを閉じていて、ゲートを越える水量だけが日本海に流れています。

信濃川の水は下流域の住民の生活や田畑で使う適量の水が流れていて、それ以上の水はこの分水路を流れて日本海に向かいます。
洪水時はゲートを開けてより多くの水を日本海に流し、渇水時は水がゲートを越えないので流ないようになっています。

上流の信濃川

奥の信濃川の本流は左の、赤い橋の見える方です。

下流の分水路

平常時なのでゲートを越える分の水だけが日本海に流れていますが、とは言ってももの凄い量の水です。
雪解けの水が流れているからでしょうか、水量の多さに驚きます。
この分水路がなければ、この水も信濃川下流の新潟市に向かって流れる訳で、平常時でこれなら台風や上流で大雨の時にはとても堤防だけでは氾濫を止められないことが体感的に分かります。

日本海に流れるこの水の先には角田(かくだ)・弥彦山地があります。
この分水路を通すために岩盤の硬い山を掘削し、多大な苦労を要しました。

各所の説明② 大河津分水の自在堰と旧可動堰

分流でない本流の、新潟市に流れている信濃川の方も見てみましょう。

信濃川と分水路の分かれ目の辺りに大河津分水資料館があります。
①の可動堰から歩き②の旧可動堰を通り資料館に向かいます。

途中にはかつて自在堰があったことを知らせる説明板があります。
現在は土台のみが残っています。

自在堰(じざいぜき)は大正11年(1922年)に完成し、水と空気の力を利用してゲートを開け閉めして水量をコントロールする日本で初めてのものでしたが、完成してから5年後の昭和2年(1927年)に大雨による洗堀(せんくつ)で陥没しました。

自在堰が陥没したのち急いで旧可動堰が造られ、4年後の昭和6年(1931年)に完成し、以降、平成23年(2011年)まで80年にわたり越後平野を守りました。
現在は先ほど見た可動堰が活躍しその役目を終えましたが、10門あったゲートのうち3門が残されています。この旧可動堰を造った時の苦労は後ほどお伝えします。

上が旧可動堰

洗堰(あらいぜき)に向かう途中に資料館があります。
大河津分水の歴史についても後ほど、資料館で知ったことを基に説明します。

各所の説明③ 信濃川の洗堰

こちらが大河津洗堰です。

信濃川に流す水量を調節しています。

信濃川の水は平常時は下流域で生活や田畑で使われる必要な量を流しています。

大雨や台風で下流で洪水が起きると、上流から流れる水を止めるためにここでゲートを閉め、水が下流に流れないようにし、氾濫を防いでいます。

船を通すための閘門(こうもん)があります。
門の前後の水位の差を無くして船を通せるようになっています。

こちらにも魚道がありますが、洗堰では3カ所の魚道観察室があり見学できるようになっています。

この魚道観察室を観るのも楽しみにしていましたが、残念ながらこの時はまだコロナ感染防止策の一環として見学できませんでした。

洗堰はもっとゆっくり観たかったのですが、上流から流れる草木が溜まっているからか、小さな虫がたくさん飛んでいてそれが顔に寄ってくるので、ゆっくり観れませんでした。

各所の説明④ 信濃川の旧洗堰

現在の洗堰は平成12年(2000年)にできたもので、大正11年(1922年)からそれまで活躍していたものは隣にあり、近くに寄って見たり門をくぐったりすることができます。

大河津分水資料館と大河津分水の歴史

大河津分水の設備機能を簡単に紹介しましたが、ここからは大河津分水の歴史をご説明します。

大河津分水については信濃川と分水路の間にある資料館で詳しいことを知れます。
無料の施設で、4階の展望室では信濃川と分水路の分かれ目を見ることができます。

大河津分水の工事が始められたのは明治時代でした。

信濃川大河津資料館のパンフレット

江戸時代は、3年に1度水害が起こり、潟や沼が点在し水はけが悪く、腰まで水に浸かりながら稲刈りをしなければならない深田が広がる場所でした。
その改善を求め、1730年頃から大河津分水の建設が江戸幕府に請願されましたが、起工には至りませんでした。
※何の対処もされなかったのではなく、三潟(鎧潟・田潟・大潟)の連なる遊水地の排水工事が優先された

明治時代になり明治元年に大洪水が起こると、明治政府はようやく分水の着工に踏み切り、明治3年(1870年)に分水工事が開始されました。

しかし人力による工事は思うように進まず、国の財政が苦しくなり、政府から依頼された外国人技術者が分水ができると新潟港の水深が低下すると報告したことで分水工事に疑問を持つ者が増え、また山間部を切り崩す過酷な作業に駆り出される地域住民の負担が多く、分水反対運動や騒動が起こり、工事は中止を余儀なくされます。
毎日1万人から2万人の人が働いたようです。

明治29年1896年7月22日、記録的な大水害「横田切れ」が発生すると、分水工事を求める声が一段と高まり、明治40年(1907年)に工事再開が決定され、42年(1909年)から本格的に工事が進められました。

横田切れの惨状

この工事には当時の最新技術と機械が使われ、延べ1,000万人もの人々が働きました。日本で最初の大型機械を用いた山地掘削が行われ、当時最新の土木機械が数多く使われましたが、それでも標高100m近くある山間部を約1.8kmにわたって切り開く工事は予想以上に難しく、東洋一の大工事とも、東洋のパナマ運河とも呼ばれました。
3回もの大規模な地すべりが発生し、その度に分水路が土砂で埋まるなど非常に難しい工事でした。
運び出された土は2,880万㎥(立方メートル)、10t積みダンプカーで地球を一周するほどの量だったといいます。
※掘られた土砂は湿田の埋め立て、堤防の強化、新潟バイパスの盛土などに使われた

こうした苦労の末に13年後の大正11年(1922年)に初めて分水路に水が通されました。
(明治40年、1907年から数えると15年の工期、42年から数えると13年の工期)
大河津分水が通水して以来、下流の信濃川の堤防が切れたことはなく、越後平野の水害が激減し、それにより交通網と産業が発展し越後平野の街は大きな発展を遂げ、今日の越後平野は大河津分水によって創られたとも言えるのです。

それを表す顕著な例が新潟市にある萬代橋(ばんだいばし)です。
大河津分水ができたことで信濃川の水が減り川幅を狭くすることができ、萬代橋は橋の長さを半分以下にすることができました。
昭和4年(1929年)に完成した現在の橋の長さは全長306mですが、明治期の萬代橋の長さは782mもありました。
現在新潟県庁や万代シティがある場所は、かつては信濃川だった場所でした。
万代橋は実際に歩いた時に随分と長い橋だと感じましたが、昔はもっと長かったというのですから、驚きます。

※2015年9月撮影

また交通網の発展も大河津分水による恩恵です。
洪水が起こる地域を迂回していた交通網は分水路ができたおかげで直線的に結ぶことができ、長岡市から新潟市までの移動距離が短縮しました。
現在の上越新幹線や北陸自動車道がそれです。

石碑から知れる分水工事の苦悩の歴史

資料館で江戸時代から現在に至るまでの大河津分水の概略を知ることができました。
充実した展示でしたが、資料館の周りにある石碑も深く考えさせるもので見逃せません。

まず、資料館から河原に向かう途中に信濃川治水気功碑があります。
この碑は越後平野を水害から救うために計画された分水工事が、紆余曲折を経て着工までたどりついた経緯と、当時、東洋一といわれた大工事の内容を克明に刻んだものです。

少し長いですが一部はしおったり補足しながら読むと、
大河津分水構想の始まりは、今から約250年前の享保年間(八代将軍吉宗の頃)にさかのぼります。当時越後平野は3、4年に一度は信濃川の洪水で一面泥の海と化し、その被害は八百余の村に及んだといいます。洪水によって年貢米が納められず、一家の主人が水牢(みずろう)などの刑に処せられ、これを見かねた妻や娘が身を売ったという話が、信濃川沿いのほとんどの農村に残っています。

水牢の刑は江戸時代に年貢滞納者などに処せられた刑で、腰の高さまで水に漬かる牢屋に閉じ込める刑罰です。見た目とは裏腹にかなり残酷な刑罰で、座ったり横になり休むことができず眠ることもできず、皮膚が水を吸い過ぎてふやけて破れてしまう刑罰です。

こうした惨状を見かねて寺泊(てらどまり)、これは分水駅の隣の辺りですが、の本間数衛門、河合某は、信濃川が最も日本海に近づく大河津付近から約10キロの人工水路を掘って、洪水を分水する案を幕府に願い出たのが分水構想の始まりです。
その後、本間親子の二代にわたる幕府への度重なる懇願をはじめ、当地域の多くの人々により、分水着工の運動は約200年も延々と続きました。
そして明治42年にようやく着工され、延べ一千万人の労力を要し15年間の歳月をかけ、完成に至りました。

碑文には、要約ですが、この地に碑を建て後世の人にその由来を知らせよう、
と書かれてあり、長年にわたり幾多の困難を乗り越え実現せしめた越後の人びとの不屈の精神と情熱が感じられます、と書かれています。

資料館から分水駅に向かう道の方には、信濃川補修工事竣工記念碑があります。

先ほどふれた旧可動堰が完成した時に造られた記念碑です。
大河津分水の通水から5年後、川底の洗堀(せんくつ)により自在堰が陥没すると、信濃川の水は分水のみに流れ信濃川下流に流れなくなりました。
水田は水が取れず上水道も断水し新潟市では海水が逆流し市民は塩辛い水を飲まされることになりパニックになりました。
1日も早く下流に水を流すため応急工事が行われ、担当者は悲壮な覚悟を持って厳しい冬も酷暑の夏も昼夜突貫工事を遂行し、4年後に完成しました。

隣には補修工事従業員一同碑なるものがあり、こちらには、

当時の工事は人力が主体で夏は川原の水が沸くほどの暑さ、冬は身も凍る寒さの中で雨、風、雪に耐えて昼夜兼業で行われ、毎日数千人に及ぶ人たちが従事し、ようやく完成したことが書かれています。
現在の感覚だと4年の工期は長く感じますが、自在堰が5年かけて造られ、また川の中で仮の施設で信濃川の水を流しながら水量を調節しながら行われたことを考慮すると、いかに驚異的なことであったか想像されます、と書かれています。

その近くには有泉栄一(ありいずみ えいいち)君碑というのでしょうか、当時の気鋭の土木技術者で二十代後半で着任した有泉栄一技師の功績を讃えた石碑があります。

有泉技師は10年10ヶ月のあいだ分水工事に貢献し、大正7年分水の完成を待たずに北海道へ転任し、翌年40歳の若さで病のため故人となられました。

明治時代の人は現在では想像できないほど働き、近代化に多大な貢献をした先人が多くいますが、この説明板からもそのような人生の一部を垣間見ることができます。

大河津分水は完成してからも多くの苦労があり、信濃川流域の治水事業は苦難の連続だったことが分かります。

先人たちの苦労と偉業を偲ばせる桜並木

分水駅から資料館に向かう道には桜並木があります。
春になると、分水路工事の竣工を記念して大正時代に植えられたソメイヨシノが堤防沿いに咲き誇ります。

日本を旅しているとこのような、一大事業の記念として桜が植えられているのを目にしますが、観る度にこういうのはいいものだと思います。
一年に一度は、桜を愛でながら先人たちの偉業を思い起こし当時の苦労を偲ぶことは後世まで続いて欲しいものです。

幾多の困難と苦労を伴い現在新潟に数々の恩恵をもたらしている大河津分水ですが、
信濃川流域の住民の暮らしを守るには継続した維持が必要です。
川床の低下を防ぐ固定工事をしているようですが、川床が低くなることで周辺の建物が傾く危険があるようです。
設備の老朽化の修繕も必要で、また現在の分水路は入口が広く出口が狭く堤防決壊のリスクが高いため、日本海の出口付近の山地を掘削して川幅を広げる必要があり、課題はまだまだあるようです。

地方と都市の構図

今回大河津分水を歩いてみて、いろいろなことを知り、また感じましたが、
地方と都市の構図を考える機会にもなりました。

日本海側有数の都市として発展している新潟市は、都会から離れたこの静かな地の分水路の恩恵を大きく受けています。
こうしたものはここだけでなく各地で見られ、たとえば
京都の発展は滋賀の琵琶湖疏水のおかげであり、東京の発展は利根川の東遷や荒川の西遷、つまり千葉や埼玉のおかげでもあります。

都会の繁栄は地方あってのものという現実があります。
ある本には「都市とは地方を収奪するもの」と書かれており、果たしてこう言い切ってしまっていいのかは、分かりませんが、
都市は地方を蔑ろにはできず、また地方も都市のさらなる発展のためにも衰退せず活性化しなければならないのではないか、と思えます。

地方分権や地方交付金、町おこしなどは難しい問題となっていますが、そんなことも考えさせられました。

補足 信濃川の洪水以外にもあった新潟市の発展を妨げたもの

さて、旅をした感想を話してしまいましたが、大河津分水について少し補足をさせてください。

日本海側唯一の政令都市、新潟市の発展は大河津分水なくして語れませんが、大河津分水の通水だけで新潟市が発展できた訳ではありませんでした。
新潟市の発展には大河津分水工事と同様に幾つもの苦難がありました。

新潟市の東には阿賀野川があり、その流域にも幾つもの潟や沼があり、その排水、乾田化が進められました。

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また昭和31年(1956年)には、天然ガスを採取するために大量の地下水を汲み上げたのが原因で地盤沈下が起こり海水が町に流れ込みました。
そのため大河津分水とは別に信濃川の水を日本海に逃すもう一つの分水路、関屋分水が造られました。

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この工事着手が決まったその年の昭和39年(1964年)には、マグニチュード7.5の新潟地震が起こっています。
新潟市が現在の発展に至るまでの道のりは多くの困難を伴うものでした。

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それらの幾つもの課題を解決し、現在の新潟の発展があるのでした。
少し調べるだけで新潟がどれだけ大変な場所だったのかと、つくづく痛感します。

さらに補足

以上、大河津分水路を紹介しました。
ブログと動画で伝えきれなかった、江戸時代に越後平野の深田で行われていた農作業や、分水工事を中断させた住民の反発、分水工事再開を決定づけた横田切れの悲惨な惨状などは、別の記事にしています。
そちらも読んでいただけたら嬉しいです↓

【新潟】大河津分水路の補足(旅13日目) | 綴る旅 (tsuzuritabi.com)

参考文献

図説新潟県の歴史 (図説日本の歴史15) 』河出書房新社 (1998/7/1)

YouTube

大河津分水は動画でも紹介しています。よろしければ是非ご覧ください。

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