【新潟】大河津分水路の補足(旅13日目)

新潟県

【新潟】新潟を発展させた大正期の大偉業 大河津分水(旅13日目)の補足です。

江戸時代に越後平野の深田で行われていた農作業や、分水工事を中断させた住民の反発、分水工事再開を決定づけた横田切れの悲惨な惨状について、簡単にまとめています。

スポンサーリンク

江戸時代の越後平野の深田での農作業

現在の越後平野は、昔は蒲原・頸城(かんばら・くびき)平野と言われていました。
信濃川、阿賀野川の下流には潟湖がいくつもあり、河川に囲まれた低湿地で、記録によると寛永から宝永に至る約40年間、洪水による冠水に悩まされ続けました。
水による被害だけでなく日照りによる旱魃にも悩んだといいます。

本来、人が住み農業ができる場所ではありませんが、江戸時代(近世初頭から18世紀にかけて)に新田開発が行われ、自然堤防や砂丘、砂堆などの上に村がつくられました。
農民に対して3年間、年貢諸役を免除し、土豪や浪人、村共同で灌漑事業・用水工事を行い開発を進めました。

この開発は困難を極め、融雪期には雪解けの水による洪水が起こり、堤防が決壊し濁流が流れ出し、田畑を吞み込みました。

潟の中でも信濃川流域にある三潟、鎧潟・田潟・大潟の連なる遊水地は特に住民にとっては悩みの種で、少々の雨でも水が溜まる厄介なものでした。

この水抜きが文政元年(1818年)に着工され、川幅10間(18.1m)、長さ2400間(約4300m)の川が排水のために造られました。延べ199万万人の人夫が従事し、経費約6万両がかかったといいます。
江戸末期の金1両を30万と仮にすると、6万両は180億円になります。

この新田開発は必ずしも無意味で住民を苦しめるだけのものではなく、こうした工事により新たな農作地が増え、村が増え、石高が増えました。
正保2年(1645年)に61万石だった石高は明治初年(1868年)には115万石になりました。

『図説 潟県の歴史』では平安時代からの石高の増加が説明されており、
平安時代の記録『和名抄(わみょうしょう)』によると、越後国の石高は約12万石だったが、それが約700年後の秀吉の頃には39万石に、その約50年後の正保2年(1645年)には61万石に、そして明治初年(1868年)には115万石と、江戸時代約270年の間に70万石も石高が増加したことが書かれています。

越後平野で開発が一番著しかったのは、蒲原郡、現在の新潟市(福島県境まで)と燕市の一部、長岡市の一部、でした。佐渡でも国中の平野が開拓され広大な水田になりました。

とはいえ、未開発の地に次々と進出し耕地を広げることは、大変な生活を送ることでもありました。
蒲原地方特有な客土法に「フンダギリ」というものがあります。
川底の土を水中に入って足のひらで土を取り上げ、これを肩に乗せて舟に積み込むものです。
こうして「ふんだくった」土を低地に客土したり、畦を作ったりし、この作業は昭和20年代頃まで続けられた地域もあるようです。

時期は冬から2月3月にかけて、雪の積もった田んぼをそりで運ぶこともあり、
6日、7日かけて成人一人が1日の労働で舟4、5杯にあたる1反(10アール)を客土したといいます。
「掘上げ田」と呼ばれる客土法もあり、一部の土地に堀を掘り、その土をかき上げて田に入れて耕地を作る、土地の一部を犠牲にしてまで少しでも高い耕地を作るものも行われました。

しかしこうした田んぼ作りは根本的な解決にならず、耕地が低湿地に進出すればするほど被害を受けました。
また、このような重労働で極めて生産性の低い米作りを強いられたにもかかわらず、採れる米の品質は悪く、鶏も食べないでまたぐ「とりまたぎ米」と称されました。

新田開発をし耕作地を増やすためにこのような苦労をしてもそれが報われることは少なく(3~4年に一度は信濃川が氾濫するので)、洪水から逃れるために関東に出稼ぎにやってくる者が多かったようです。
大工や酒造りの杜氏・酒男として出稼ぎに出ました。

分水工事を中断させた住民の反発

江戸時代からの長年にわたる住民による請願を受けて着工された明治時代の大河津分水工事は、農民救済のための施策でしたが、結果として地域住民に過重な負担を強いるものとなりました。

明治3年(1870年)、民部省の直轄で大河津分水を開削することが決定しますが、1年前に越後府主導で開削を決めた時は全額官費だったのに、全工事費100万両のうち60万両を越後の村々が負担するものと変更し、住民の心情を不安定にしました。

水害地帯は工事の人夫役も賦課され、工事は鍬・ジョレン・モッコといった人力に頼るもので作業が進まず、村々からの費用と人夫の調達もスムーズにいきませんでした。
そればかりか、分水工事にともなう過大な負担への怨嗟の声が広がっていきました。

そんな中、新潟県は工事の完成予定であった明治5年になると、蒲原・岩船両郡に新たに6千人の人足徴発を命じて工事に鞭を入れますが、このような強硬策はかえって人々の反発を呼び、4月に1万数千人の民衆が蜂起し、分水工事の中止を求めて新潟県と柏崎県へ押し寄せました。

『図説 潟県の歴史』にはその原因を、明治政府が富国強兵・天皇制国家を目指し強力に進めてきた仏教抑圧、外国交易、諸税増加などの諸政策で、民衆の間に膨らんでいた不信や不満が、分水工事の過酷な負担によって火をつけられ、一気に爆発した、
と記しています。

明治12年(1875)にも暴動が起き、コレラが流行し人々の恐怖が増加し騒動が起きています。

大河津分水工事の中断にはこのような歴史がありました。
勉強不足のため動画ではふれませんでしたが、工事を中断させた大きな要因となった1万人もの住民の蜂起は、悌輔騒動(ていすけそうどう)と呼ばれています。

これが住民への過度な負担が原因で起きたものであれば取り上げましたが、どちらかというと住民の不満を煽った一揆の側面が強く感じられ、これが取り上げなかった理由でした。
薩長に敗れ職を失った旧会津藩士や廃仏毀釈で明治政府に恨みを持った浄土真宗の僧侶が、分水工事に不満を持つ民衆を扇動した側面が強い気がします。

分水工事再開を決定づけた横田切れの悲惨な惨状

明治29年、30年には2年連続の大洪水が起きました。
29年の大洪水は「横田切れ」として知られていますが、
7月の梅雨の長雨で7月20日に信濃川が一気に溢れ、長岡市から白根市にかけて広い範囲で水が耕地や宅地に流れ込みました。
支流も次々に堤防が決壊し、22日には信濃川の堤防が決壊し、これが横田切れと呼ばれていますが、新潟市内の8割が浸水し、長岡では信濃川に架かる橋が落ちるといった大災害が起こりました。

被害総計は、寒水田畑約5万9千ha、流出した家屋と建物7百棟、床下浸水約4万4千戸となり、損害総額は約123万円。同年の新潟県の歳出総額の6割強にあたる厖大なものでした。

水害は29年の横田切れだけに収まらず、水害の傷跡も癒えぬままに翌30年には7月~9月の3ヶ月間に、波状的に大洪水が起こり県下を襲いました。
長期の雨で地盤が緩み山崩れも各所で起こり、被害を一層大きくしました。

長期間溜まった水で稲は腐り田畑が潰れ、また長雨の後にウンカ(稲の害虫)が大発生し、米作は平年の半分以下に落ち込む大凶作となったのでした。

そのうえ、不衛生な仮住まいで赤痢・チフス・マラリアなどの伝染病が流行りました。

社会保障制度がなかったと当時、窮乏した民衆の救済は地域有力者による慈恵的施与に頼るしかありませんでしたが、それには限度があり、多くの窮乏者が離村に追い込まれ、その数、総数10万人を超えるといわれ、失踪者は1万7千人にものぼっています。

この時に起きたのが北海道落ち女工の出稼ぎでした。
後日、北海道の開拓の歴史でふれますが、この各地で起こった北海道落ちタコ部屋労働を容認するものでもあり、悲惨なものでした。

明治後期の工事再開

明治29年の大洪水でその完成の声が高まった分水工事が、帝国議会で可決されたのは明治40年になってからでした。

その要因は、信濃川の水位低下で港の機能がなくなることを恐れた港湾管理者の反発(明治初期に雇った外国人技師が分水ができると新潟港の水深が低くなると報告したのが原因)や、分水路予定地とされた地域住民の反対、日露戦争の勃発でした。
※オランダ人技師リンドーの報告

明治40年に15ヵ年計画で工事が再開され、10kmの分水路の工事が延べ1千万人の労力と2,300万円の巨費が投じられました。

掘られた大量の土は、海岸や分水路の両岸に積み出され、分水路の堤防工事や沼や潟の埋め立てなどに使われました。

そして大正11年(1922年)8月、分水路に初めて水が流され、同13年3月に竣工式が行われ、信濃川全灌漑面積の8割にあたる6万2900haの耕地が恒常的な水害から解放されることになり、乾田化や開田が進み、国内屈指の穀倉地帯となりました。
 
分水工事の賃金は地域経済を潤しましたが、工事による死者は84名に達しました。

参考文献

図説新潟県の歴史 (図説日本の歴史15) 』河出書房新社 (1998/7/1)

コメント

タイトルとURLをコピーしました