今回は富山県の氷見を紹介します。
氷見はひみ寒ブリと定置網漁が有名な漁業の町で、ここで行われる漁業は持続可能性に優れたものとして世界でも関心を集め、日本農業遺産に認定されています。
その歴史は古く、氷見では江戸時代に既に定置網漁が行われており、陸と海とが循環する漁をしていました。
氷見では漁場が陸から近く固定されていて、田畑や山林が漁業に直接影響を与えるため、住民たちが里山の保全に力を入れ、漁場を守る努力をしてきました。現在も陸と海との繋がりを大切にし、陸の自然を保全することで重要な海洋資源を守る取り組みをしています。
氷見の漁業は、漁業という枠だけに収まらず農業や林業と深くかかわり、そこに住む人の生活を支える興味深いものです。
そんな氷見の漁業について、氷見市漁業文化交流センターと氷見市立歴史博物館で知ったことを紹介します。
天然のいけす富山湾
2022年4月に富山県氷見を旅しました。この日は石川県の金沢駅から電車に乗り、氷見、高岡、富山へと移動し、それぞれの駅の周辺を歩きましたが氷見が一番面白く魅力的な場所でした。
氷見は富山県の北西部、能登半島の付根に位置し、日本海でありながら冬も波や風が穏やかな漁に適した場所です。
富山湾は最深部が1250mと深く日本三大深湾に数えられ、
※日本三大深湾:富山湾、相模湾、駿河湾
水深200mよりも浅い大陸棚から一気に海底まで深くなり、フケと呼ばれる深い谷には多様な魚が回遊しています。
また富山県は立山連峰をはじめ多くの山々があるため、山から流れ込む河川の水が海に豊富な栄養分をもたらし、魚の好むプランクトンが発生し、このプランクトンを求めて魚が回遊しています。
そのためここ富山湾では、古来より回遊してくる魚を待ち構える漁が行われてきました。
江戸時代の始め頃には既に定置網漁や地引網漁が行われていたといいます。
波風が穏やかという気候は冬場の漁を可能にし、氷見では一年を通して漁が行われ、この豊かな漁場富山湾は、天然のいけすと呼ばれています。
氷見駅の鰤瓦
氷見駅に着くと越中式定置網発祥の地と書かれた石があり、氷見で長年改良されてきた定置網が全国に広がったことを表しています。
YouTubeで紹介できなかった内容です。
氷見での定置網は天正年間(1573~1592年)に始まったとされています。
(明治34年に定置網と呼ばれるまでは台網と呼ばれていたようです)
網が画期的な発展を遂げたのは明治40年に、当時宮崎県で大漁が続いていた日高式大敷網(三角網)という新型の網を導入したのがきっかけでした。
その後、大正初年頃に氷見の上野八郎右衛門が日高式大敷網の欠点を改良し、網口など開口部を魚が逃げにくいように小さくした上野式大謀網を考案し、これが今の越中式落し網(大敷網)の原型となっているようです。
さらに登り網を取り付けた落し網というものが大正後期から昭和初年頃に出現したらしく、昭和40年代には二重落し網が考案され、それに伴い網の素材も改良が図られ、大規模な網の敷設が可能となったようです。
きときとひみどっとこむ https://www.kitokitohimi.com/ を参照
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駅から20分近く北の方に歩き、氷見漁港に向かいます。
氷見駅の駅舎の屋根には、ブリをデザインした飾り瓦が並んでいます。
かつて氷見では、ブリ景気で儲けた漁師たちが家の瓦を鰤の飾り瓦にしたのだそうです。
昔からある実物の鰤瓦を見たかったのですが、現在は残っておらず、調べた限りでは、氷見漁港からさらに13kmほど北にある女良(めら)漁港の近くに坪岩崎鰤大敷網(つぼいわさき ぶりおおしきあみ)倉庫と言うのでしょうか、明治後半に建てられたとされる定置網倉庫があるのみです。
先ほど氷見の漁業についてふれましたが、回遊魚を目当てにした漁は年ごとに漁獲量が違うのも特徴です。
年間を通じて漁ができる反面、その年によって獲れる魚の割合が違うといった特徴があります。
氷見の定置網漁の特徴①持続可能性に優れた漁業(氷見市漁業文化交流センター)
氷見駅から17分ほど歩き氷見漁港にやって来ました。
近くに氷見の漁業を体験的に学べる氷見市漁業文化交流センターがあります。
こちらは無料の施設で氷見寒ぶりや漁の仕方、漁に使う道具など、氷見の漁業文化を紹介しています。
時間がなく体験できませんでしたが、巨大スクリーンのVRシアターで、定置網漁法や氷見の漁師体験を映像で楽しむことができます。
旅の時はまだできていませんでしたが、2023年5月以降、館内に食事処ができ、氷見漁港で水揚げされた新鮮な朝獲れた魚を楽しむこともできるようです。
船や網、浮き球など漁に使われた実物の道具を間近に見れるのがこちらの良さですが、解説も充実しています。
パネルには氷見の漁業について、
氷見では長年にわたり定置網漁業と農林業、水産加工業などが関連しながら営まれ、地域の食料や経済を支え、社会や文化、信仰などとも深くかかわりながら今日まできた、とあります。
氷見では大小29基の定置網が設置され、大陸棚を利用した定置網漁業は氷見の漁獲量の9割を占め、鮮度・品質の優れた魚はブランドとしての価値を持ち、また伝統的な加工品とされ、それらを求めて多くの観光客が訪れます。
漁業だけでなく水産加工業や観光業の雇用も創出し経済を支えており、定置網漁業が基幹産業となっています。
この定置網漁は網に入った魚の3割程度しか獲ることができず、稚魚や小魚を育む漁礁の役割を果たし、漁場まで約20分と近く燃料消費が少なく環境に優しく、無理なく働け、冬も漁ができ漁業者に優しく、持続可能な漁法となっています。
かつては定置網で獲れたイワシが田畑の肥料となり、水田で獲れた稲藁が網の材料となり、里や森で獲れた杉が船や浮きの材料となり、漁業と農林業とが深くかかわっていました。
それが現在は、ため池や水路を綺麗にしゴミを拾い、減農薬農業に努め海を汚さないようにし、植林をし魚つき保安林を保全する活動に、自然保護の思想が受け継がれています。
水路を掃除するのは山から海に運ばれる栄養分の流れを止めないもあるのでしょう。
必要以上に荒れ地を作らないように、耕作放棄地にワイン用のぶどうを栽培することも行われています。
魚つき保安林とは漁場を守るために、魚の繁殖・保護を目的として住民が海岸に植林した森林です。
沿岸に森があると海に木陰ができ魚が休め、そこに設置された網に魚を誘導できます。
木陰が水温の急激な変化を防ぎ、木々が風や波を防ぎ水中を穏やかにする働きもあり、
また森林があることでその栄養分が海に供給されプランクトンが増えます。
こうした氷見の定置網漁業は海外へも普及され、定置網の技術や経営方法、そして自然を保護する考えが、技術指導を介して海外へもたらされていることも、パネルで知りました。
氷見の漁業は日本農業遺産に認定されています。
世界農業遺産なんてものもあるようです(氷見は認定されていません)。
これだけでも十分、氷見の持続可能性に優れた定置網漁について理解を深めることができますが、氷見市立博物館ではさらに詳しく知ることができます。
氷見漁港の北にある氷見市文化財センターもお勧めとのことですが、10km以上離れており歩くと2時間かかるのでそちらは断念しました。
氷見漁港の様子
氷見の定置網漁の特徴②海と陸の循環、漁業が育んだ内職と出稼ぎ(氷見市立歴史博物館)
氷見市立博物館は漁業文化交流センターと氷見駅との間にあり、氷見駅から歩いて約10分の所にあります。
入館料は100円でフリーの資料が豊富で、撮影した写真・動画をSNSやYouTubeに投稿できるという、素晴らしい施設です。
館内は氷見の歴史、氷見の漁業、氷見の農家のくらしの3つの構成になっています。
原始から古代、中世、近世と氷見の歴史を概観した展示と、
定置網のしくみ、網や浮きなどの漁の道具、木造和船の構造技術といった漁業の展示と、
そして農村・山村の暮らし、牛馬で田畑を耕し内職をし出稼ぎに行き祭りを楽しむといった暮らしの展示、となっています。
展示の中から幾つかピックアップして氷見の定置網漁業を深堀してみたいと思います。
氷見の定置網漁の優れている点の一つに、定置網が漁礁となることが挙げられます。
定置網に貝や海藻が付着することで小魚が群がったり、魚やイカが卵を産み付けたりし、漁業資源を増やしまた生物多様性に寄与しています。
これは現在の定置網業のメリットですが、昔は役割を終えた網を海に沈めることで漁礁としての役割を果たしていました。
江戸時代から明治時代にかけて定置網漁に使われていた網は、藁縄を編んで作った藁台網(わらだいあみ)が使われていましたが、
春のイワシ用、夏のマグロ用、秋の鰤用と、獲る魚によって網を変え、三季の漁期ごとに入れ換えて敷設されました。
漁期が終わると網は浮きから切り落とされ、海中に沈み、それが漁礁の役割を果たしたのです。
※現在は漁期ごとにに網を替えず、周年利用している
里山で獲れた稲藁が網となり海に還るという流れには興味深いものがあります。
浮きは昔は杉丸太を割ったものやモウソウチク、桐製のものが使われていました。
明治時代の後半でしょうか、後にガラス製のビン玉となり、その後は樹脂製へとなりました。話が反れますが、富山と言えば江戸時代の薬売りが有名で、そこから薬のビンが造られるようになりガラスの製造が栄えたと聞いたので、浮き玉も富山の薬売りと関係があるのか気になりましたが、そうではなく浮き玉は小樽で発明され、それが全国に広まったのだそうです。
話を海と陸の循環に戻して、田んぼでは米がたくさん作られ、藁が網だけでなく魚の加工や運搬に使われ、柿渋が網の防水に使われ、漆が接着剤として使われ、そして山や里で伐った木が船に使われました。
※一口に藁といっても、その利用は多岐に渡る
そして漁で獲れた大量のイワシを肥料として田畑に撒き、作物を育てまた漁の道具としたのです。
氷見といえばブリのイメージがありますが、獲れる量が多い魚は上から順に、
イワシ、アジ・サバ、マイカ、ブリ、マグロとなります。
漁の中心はイワシで、1月から3月の春に定置網漁で、秋に地引網漁で、と年に2回イワシ漁が行われました。
江戸時代は干鰯(ほしか)という干したイワシを肥料の材料として出荷し、
明治時代は油を除いた〆粕(しめかす)を出荷しました。
イワシを原料とした肥料は田んぼの他に、藍や綿、麻などの栽培になくてはならないものとして重宝されました。
イワシは肥料としてのイメージが強いですが、重要な食用資源でもありまた様々な加工品の材料となりました。
YouTubeでは紹介できなかった内容です
イワシは肥料として利用されただけでなく、食用・加工品としても利用されました。
煮物や塩焼きとして食され、干鰯(ひいわし)や煮干し、ミリン干しなどに加工され、そして運ばれ、販売されました。
その際の使われる道具、水揚げの為の用具、販売するための用具、加工品を運搬するための用具も、里山の植物が材料となりました。
水揚げしたイワシを洗う桶、煮干し用の簀子(すのこ)、〆粕を絞る樽といった、そうした加工用具が里山の植物で作られ、他にも、運搬用のざる、大八車、冬場に使うソリがつくられました。
そうしたことからも氷見では漁業が様々な雇用を生み出し、経済活動を支える基幹産業だったことが分かります。
氷見の鰤と言えば、塩ブリも知られていますが、こちらもブログに譲ります。
YouTubeでは紹介できなかった内容です
歴史に興味のある方にとっては、氷見と言えば塩ブリを想像する方も多のではないでしょうか。昔はお歳暮として人気のあった塩ブリは、戦国末期頃には既に作られていたといい、昭和30年頃まで盛んに製造されていました。
塩漬けのためにブリ一本に一升の塩が使われ、出荷の際にはさらに塩が使われたといいますが、昔の山間部に住む人は塩引きされた魚を食べることで塩分を補給したので、塩を手に入れる手段としても塩ブリは価値があったと思われます。
塩ブリは年末に向けて作られ、年末に飛騨山脈を越えて各地に送られ、海のない飛騨や信州の人たちから正月の縁起物として珍重されました。
年取り魚(としとりざかな)として正月を迎える縁起のいい魚、ご馳走とされたのです。
※年取り魚は西日本ではブリ、東日本では鮭が代表的だった展示にありました。
飛騨高山を経由して信州に運ばれた道は鰤街道と呼ばれ、最も遠い距離は富山湾から300km離れた場所だったといいます。
牛馬と人の力だけで運ばれ、氷見から高山までおよそ3~4日かかり、雪道を運ばれ多くの人の手を経た塩ブリは値が高くなり、氷見の浜値の4倍の高値で取引されました。
塩ブリはお歳暮としてだけでなく、脂の少ない夏ブリも加工されることがあり、お中元の贈答品として金沢方面に出荷されました。
ブリの他にも、イカも干イカや煮イカとして出荷されました。
木造和船の展示も興味深いものがありました。
昭和50年代までは木造の船、和船が使われていましたが、和船を造る大工道具が展示されています。
和船は刳る(くる)、曲げる、接ぐ(つぐ)などの独特の技術が発展し、それを支えるために船大工道具も発展しました。
氷見では櫓櫂(ろかい)を専門に作る大工がいて、櫓や櫂、舵など船を操縦する道具は専門の大工がいました。
このように分業化し職業が細分化したのも、氷見の定置網漁が経済的に大きなものだったからと思えます。
こちらは内職と出稼ぎの展示です。
漁や加工に使う道具を里山の資源で作ってきた氷見では、その技術を地方に売ることができました。
明治中頃に北海道でニシン漁が盛んになると、ニシンを乾燥させる干筵(ほしむしろ)が小樽へと運ばれました。
耕地の少ない氷見ではこうした副業が大きな収入源で、呉座やそうけ、藤箕(ふじみ)が作られ、新潟や長野、遠くは北海道に販売されました。
※呉座:畳表、そうけ:笊(ざる)、藤箕:ふるい
また雪国ならではの出稼ぎも盛んで、鏡磨(かがみとぎ)がありました。
明治初期に海外からガラス製の鏡が入ってくるまでは、江戸時代中期から鏡磨の職人が農閑期(のうかんき)を利用して出稼ぎに出ました。
氷見の農山漁村の次男・三男が毎年旧暦11月~3月に諸国へ出かけ、東は関東から奥州、西は東海から近畿地方まで、行先ごとに組を作り5~6人で一組となり行動を共にしたとあります。
明治になりガラス製の鏡が出回ると、鏡磨は小間物行商に転じました。
※櫛、玉類、紅、白粉、眼鏡、縫い針、袋物などを売った
などなと、充実した展示を楽しむことができました。
氷見は2時間にも満たない短い滞在でしたが、二つの施設で氷見の定置網漁について理解を深めることができました。
稲藁とイワシの関係のような、陸と海との循環は現在はありませんが、里山の自然を守ることで海洋資源を守ろうとする思想は自然保護の取組に受け継がれています。
これも漁場が陸から近く固定され、また漁業が基幹産業となり経済規模が大きいからでしょう。
旅が終わってから知りましたが、氷見の漁師の中には、朝に漁が終わると昼には畑に出て農作業をする人がいるのだそうです。
漁業で儲けたお金で里山を開拓する半農半漁の人が多く、海と陸との両方を仕事の場にしている人が少なくないようです。
今回の旅では海にばかり目を向けていましたが、次回訪れる機会があれば魚つき保安林をはじめ陸地や里山にも目を向けて周辺を歩いてみたいと思います。
また氷見のような漁業と農林業とが深く結びついたケースは、日本の他の地域にもあると思います。
そうした場所も機会を見つけて歩いてみて、動画で紹介したいと思います。
補足:米作と出稼ぎが盛んだった富山
最後に補足を幾つかさせてください。
稲藁とありましたが、富山は昔から米がよく獲れる土地でした。
雨と雪の多い気候は稲作に適しており、古代は出羽に次ぐ田んぼがあり、米の生産量の高い国だったと、旅の前に読んだ本には書かれていました。
※出典:図説 富山県の歴史
雪により冬は単作でしたが、それでも近世は開発振興と農業技術の進歩により稲作が大いに発展し、越中の米は大坂に大量に売却されていました。
出稼ぎとありましたが、氷見に限らず雪国の富山は出稼ぎが盛んな土地でした。
よく知られている出稼ぎが富山の薬売りです。
他にも井波・八尾の蚕種(さんしゅ)の行商や北前船の水手の出稼ぎがありました。
※蚕種:蚕の卵を産み付けた紙
水手:船の漕ぎ手
富山に限らず新潟もそうですが、日本海に面した雪国では冬季の出稼ぎが行われていたため、外の土地に出て稼ぐ気質が大きかったと思われます。
近世や近代に飢饉が起こると出稼ぎに出たことが、本を読むとたまに出てきますが、富山・新潟の人には外に出て生活の糧を求める逞しさがあったことが感じられます。
氷見の定置網漁は海外にも技術指導が行われていると先ほどお伝えしましたが、海を渡り海外に行くのも、そうした気風が備わっているからにも思えます。
そんなことから出稼ぎで有名な富山の売薬についても知りたかったのですが、残念ながらこの時の旅では施設が閉業していて知れませんでした。
こちらも機会があればまた富山を訪れて、動画で紹介したいものです。
※富山売薬は製薬、販売ルード、販売方法の他に売薬版画、
立山信仰やガラス製造との関係など、興味深いものがある
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