【岐阜】水の都大垣の歴史(電車日本一周補完の旅1日目)

岐阜県
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今回は岐阜県大垣市の歴史をご紹介します。大垣は水の都と呼ばれ、綺麗で豊富な湧水の恩恵を受けて発展してきた歴史があります。しかし、その一方で洪水が頻繁に起こる「洪水常襲地帯」でもありました。かつて大垣では、洪水に対処するために土を盛って堤を作り、舟で行き来する輪中地帯を形成していた土地でもあります。

今回は、輪中に関する二つの資料館で知ったことを紹介し、大垣が洪水と隣り合わせに発展してきた歴史を解説していきたいと思います。

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湧水を使った大垣の食

2022年の3月に29日間の電車の旅をしました。その1日目は岐阜県大垣市を散策しました。

13時前に大垣駅に到着し、駅の近くにある食事処の駅前さらしなでお昼ご飯を食べました。

お店の井戸水で調理した釜あげそばを注文しました。詳しくは別館で紹介しています(こちらです)。

隣には金蝶園(きんちょうえん)総本家という、大垣名物水まんじゅうを販売する和菓子屋があります。

大垣では湧水を使った水まんじゅうが名物として広く知られており、夏には涼を求めて各地から買いに来る人が絶えない夏の風物詩になっています。水まんじゅうの販売は4月~9月のようで、残念ながら旅をした3月はまだ売っていませんでした。金蝶園は大垣城の近くにもあります。

大垣の豊富な水と発展の歴史

綺麗な湧水を使った大垣の食では、ワサビも有名なようです。大垣は水の都といわれるほど水の豊富な土地で、地下水(湧き水)が豊富です。水都大垣では、地下からの湧水があふれ出す場所が市内に20カ所ほどある、全国でも有数の自噴水のある町です。良質で豊富な地下水に恵まれた土地故に水の都と呼ばれています。

また江戸時代は、赤坂宿があり人の往来が盛んで、船着き場が整備され水運が盛んでした。木曾三川をはじめとした川の多い大垣は、水運の集積地としても栄えました。大垣には木曽や東濃の檜が手に入りやすかったことから、桝が生産されるようになり、今でも大垣は全国のの生産の8割を占めています。近くにある金生山(かなぶやま)では石灰岩や大理石が採れ、その加工も近世は盛んに行われたといいます。

豊かな水の恩恵を受けてきた大垣は、明治末期~大正時代あたりから工業都市として成長します。水が豊富な大垣では台風や長雨の度に洪水が起こり、長い間恒常的に起こる水害に悩まされてきましたが、明治の後半に治水事業が完成すると、一気に洪水が減りました。

それからは豊富な水を工業用水や水力発電に利用しようとする工業誘致運動が盛んになり、繊維・紡績・化学工業の工場が建てられ、水力発電所ができ、工業化が進みました。この動きは戦後もますます増え、高度成長期の昭和35年から更に工場が増え、それに伴い地下水の利用は増加の一途を辿ります。

工業用だけでなく、他にも一般家庭の生活用や農業用、商店街用に地下水の利用は増加し、井戸が増設されますが、昭和50年代以降に遂に地下水が急激に減少し、次々と自噴水や井戸はなくなっていきました。今では市内で見られる自噴水は貴重なものとされているようです。

散策をした時はそんな状況を語るのかのような、水の乏しい寂しい雰囲気でした。しかしそれは同時に、近現代の大垣の経済発展を支えてきた姿でもあるのです。

輪中に特化した資料館:輪中館

さて、JR大垣駅から養老鉄道に乗り換えて友江駅に向かいます。

自転車の乗り入れができる路線です。

友江駅で降りて数分歩くと、輪中館という資料館があります。

その近くには輪中生活館という、昔の輪中地帯の住居を見学できる施設があります。

輪中館も輪中生活館もどちらも無料です。残念ながら輪中館は写真撮影が禁止されており(個人で楽しむ範囲の撮影はできます)、このブログでは簡単な展示内容の紹介に留めます。

資料館はパネルが充実した大変見ごたえのある展示で、じっくりパネルを見ると3時間はかかるくらいのボリュームでした。先ほど紹介した大垣の工業化に関することもこちらの資料館で学びました。

館内ではパネルをプリントアウトした用紙があり、自由に持ち帰れるようになっています。訪れた時は13枚も資料をもらえたのですが、とても勉強になりました。博物館や資料館で観たものは時間が経つと忘れてしまうので、こうした配慮のある所は好感がもてます。

主な展示内容はこのようになっています(輪中館HPより)。

空中から見る大垣輪中
輪中をとりまく地形と気象
輪中独特の民家のつくりを再現
明治期の十六輪中の精密模型
水防工法のミニチュアと水防資材
輪中の整備に努めた人々
江戸・明治期の治水関係資料
農具・漁具に見る輪中の知恵
ジオラマとビデオによる輪中景観の紹介

最低でも500円くらいは払ってもいいくらいの、見ごたえのある展示内容でした。輪中館で知った内容は、輪中生活館のところで紹介します。

無料で、しかも持ち帰れる資料もあるので、昔の生活や風習に興味のある人にはおすすめです。

輪中地帯の昔の住宅を見学できる資料館:輪中生活館

輪中館から歩いて3分ほど離れた所には、輪中生活館という別の資料館があります。

こちらも無料で、実際に輪中の建物を見学できます。写真・動画の撮影も可で、写真をブログに載せる許可もいただけました。

こちらは原則土日祝日のみの開館ですが、輪中館の開いている日であれば、電話で連絡すれば平日でも対応してくれるようです。輪中館の休館日は火曜日です(2022年4月現在)。

門をくぐると正面に母屋、右に納屋があります。母屋の中を見学でき、靴を脱いで家の中に上がることができます。納屋は施設のスタッフさんの駐在所になっています。その間には柿の木が植えられていますが、これは食用だけでなく、洪水時に舟を繋げておくために植えられているのだそうです。

母屋の奥には水屋があり、一段高い所に階段でつながっています。

母屋に入ると、上げ舟という洪水が起きた時に使う舟が置かれています。上げ舟は避難用だけでなく、洪水時に外部との連絡を取るのに重要なものでした。大垣の輪中地帯では、こうして家の中の柱に繋いだり、軒下に吊るしていました。

母屋に上がる手前には、輪中の模型があります。

家の敷地の周りの土を掘り、土塁を築き、敷地の更に高い所に石垣を築きそこに避難用の住居や蔵が建てられています。このように家の周りを堤防で囲んでいる場所を輪中といいます。

土の掘られた所は水路や池となり、そこでは魚や貝が住み、それを採り暮らしていました。水が引かない時期は舟で行き来したり、舟を使って農業をしていたことが、模型とその解説から分かります。

構堀(かまえぼり)。解説を書いておきます。

「構堀(かまえぼり)」に囲まれた輪中の民家

低湿な輪中地域の家々は少しでも洪水の被害を防ぐため、周囲より高い所や人工的に盛り土をした上に立てられているものが多くあります。水位が高く低湿な土地で、彩度した跡地が池や沼になっているものを「堀つぶれ」と呼んでいます。この家は、周りを「堀つぶれ」で囲まれているため、周囲から土を採ったことが分かります。屋敷の周囲に見られるこのような堀を「構堀(かまえぼり)」といい、宅地に人工的に盛り土をした跡です。家の前の堀にある舟「田舟」は当時重要な交通手段でした。「構堀」から無数に水路に通じ、家の玄関から舟に乗って行き交った水路交通の姿をよく表しています。また、このような堀が人々の重要な食糧であったフナ、コイなど淡水魚の供給源であったのです。

輪中の地域では、住んでいる土地や家の周りを盛り土をして高くするように、田畑も盛り土で高くしました。これを「堀田(ほりた)」といいます。土を掘られて低くなり水が溜まった場所(堀り潰れといいますが)には、多くの魚や貝が集まり、漁場となりました。池や遊水地のように四方が囲まれた所では、川魚や貝が飼育されていたそうです。輪中周辺の川には、コイ・フナ・ウナギ・ナマズ・ハヤ・モロコ・ドジョウ・ライギョ・カワエビ・カニ・シジミ・カラスガイと、多様な魚介類が生息し、住民の貴重なたんぱく源になりました。

こうして高台に造った堀田(ほりた)は安定した収獲をもたらしたといいます。しかし、それは同時に耕地面積を狭めることにもなります。堀田(ほりた)が開発されるようになった江戸時代以降、農作物の収入が激減した場所もあり、輪中館でもらってきた資料には「慶安2年(1649年)に600石を上納した村が90年後には、わずか17石に減少するという異常な状態」が記録として残されており、多少の相違はあれ輪中地域では作物の収穫減が起こったと考えられます。

単純に一方の田畑の土をもう一方に乗せれば、耕地面積が半分になるので、そのようなことが起こったのも頷けます。

そしてこの堀田(ほりた)は定期的にメンテナンスをしないといけないものでした。毎年水底の土をすくいだして田畑に盛らないといけなかったようです。水の底から土をすくう特殊な農具を使い泥土をすくい上げ、それを田畑やその周りに乗せる作業は重労働でした。昭和30年代半ばまで、そうしたことが行われていたようです。

母屋の中です。輪中生活館は江戸時代の地主の方の家を復元したものなので、当時の有力豪農の立派なお屋敷です。

ハレの日の食事

真ん中の押し寿司はモロコ寿しと呼ばれる、西濃地域の郷土料理です。甘辛く似たモコロ(コイ科の小魚)を酢飯の上の載せた押し寿司で、お祭りや法事の時のおもてなし料理だったそうです。

仏壇。家によっては上げ仏壇といって、洪水時に2階や屋根裏に仏壇を上げるようにしている家もありました。鎖やロープを仏壇に結んで滑車を使って天井に上げる仕組みになっています。上げ仏壇の実物は輪中館で見ることができます。輪中館の仏壇には鉄の鎖が付いていました。

奥に進むと、水屋という一段高くなった場所があります。

上手く撮れませんでしたが、外から見るとこのようになっています。左が水屋です。

奥には土蔵式の水屋が見えます。

外から見るとそれほどでもありませんが、中から階段を上がると母屋よりもかなり高い場所にあることが分かります。

1.6m高くなっているようです。

水屋には住居式のものや土蔵式のものがあり、洪水時に避難して生活する建物や食料や財産、文書を保管する蔵があります。住居の更に高い場所に設けられています。この水屋と堀田(ほりた)が輪中を代表する景観といわれており、輪中を説明する際に欠かせない独特のものなのです。

本に書いてあったのですが、水害時の避難小屋は利根川流域をはじめ日本の各地にあります。しかし輪中の水屋は他の地域の避難小屋よりも規模が大きく、それが特徴なのだそうです(『輪中(わじゅう) 洪水と人間 その相克の歴史 日本の歴史地理10』伊藤安男・青木伸好著を参照)。

一度洪水が起こり水が母屋に浸水すると、この水屋に避難し水が引くまで生活し、舟で移動して他の家と連絡を取っていました。一口に水屋といっても、住居式・倉庫式・土蔵式、そしてそれらを組み合わせたものがありました。住居式水屋にはトイレがあり、倉庫式水屋には生活に必要な米や麦などの穀物、味噌や醤油や漬物や梅干しなどが貯蔵され、土蔵式水屋には家宝や家財、文書が保管されたいたのだそうです。

こちらの家では水屋よりも更に高い場所にも別の蔵があったようです。

輪中生活館では実際の住居式水屋や上げ舟を見ることができ、水害時に当時にこの家の住人がどのような避難生活をしたのを知ることができます。とても勉強になります。輪中館でもらった資料によると、水屋は昭和47年の調査で大垣市内に216棟あったとあります。老朽化や維持の困難により年々減ってはいるのでしょうが、極力残すようにしているのではないでしょうか。治水が完成したとされる明治末期以降、水害がまったくなくなった訳ではなく昭和51年には洪水が大垣市を襲っています。先祖代々洪水と付き合い、その怖さを知っている住民の方たちは先人の知恵の詰まった高台にある水屋の重要性を十分に知っているのでしょう。

旅の後から知りましたが、この水屋は大垣市の釜笛地域に今でも多く残されているのだそうです。輪中生活館から線路を挟んで少し歩いた所になります。

Googleマップ 地図データ ©2022

輪中生活館では地主の水防の知恵を知ることができました。しかし、それはあくまで当時経済的に恵まれていた人の洪水との関わり方でした。屋敷も舟も持たない一般の百姓たちは、洪水が起こった時にどのように生活したのでしょうか。

残念ながらそれに関しては旅ではあまり知ることができなかったので、旅が終わってから後日、本を読んで調べてみました。その内容は別館の記事で紹介しているので、興味のある方は是非そちらもご覧ください。

大垣城

さて、輪中館と輪中生活館を楽しんだ後は養老鉄道に乗り西大垣駅で降り、15分歩いて大垣城にやってきました。

大垣市郷土館

当初の予定では、隣にある大垣市郷土館しか時間の都合上観ることができなかったのですが、郷土館で個人的に興味をもてる展示がなかったため、時間ができ大垣城に入れました。

大垣市郷土館は、大垣藩を治めた戸田氏の紹介がメインで、家系図や武具の展示がありましたが写真が撮れなかったので、直ぐに出てきてしまいました。初代藩主の戸田氏鉄(うじかね)は揖斐川の下流からの逆流を防ぐ水門を造り、また7代藩主の氏教(うじのり)は揖斐川の下に木造のトンネルを通して田畑に溜まった悪水を排出する工事の、許可を出した人物だったことを輪中館で知りました。なので戸田氏に興味はあったのですが、そうした展示も見当たらなかったので、直ぐに出てきてしまいました。

大垣城の入館料は大垣市郷土館との共通券で200円です。

館内は子供が好きそうな武器や鎧の展示があります。

軍制や陣形の展示もあります。

関ヶ原合戦の展示は、戦国時代好きや戦好きの人にはたまらない展示なのではないでしょうか。

有名な関ヶ原の戦いの前には幾つもの前哨戦があり、その戦いを一つ一つ丁寧に解説しています。

当時の諸武将の予想に反して僅か半日で終わってしまった関ヶ原合戦の前には、こうした戦いがあり、様々な駆け引きがあり、状況が刻々と変化していたことを知れる展示となっています。

石田三成がどのような戦術・戦略をもっていたのかの説明も興味を誘います(閉館時間が迫っていたのでちゃんと見れませんでしたが…)。

城の4階は展望台になっています。

武士や合戦の展示だけでなく、庶民や町民の生活についてもふれています。

個人的にはお歯黒の道具は興味を惹かれました。

大垣城の方は撮影可で、展示も多く、楽しめる内容でした。大垣城は関ヶ原の戦いの時に石田三成が入場して西軍の本拠地になった城で、そのことをメインにした展示となっています。1階には関ヶ原合戦と大垣城に関する展示、2階には武士と庶民の文化や生活に関する展示があります。

そして大垣城に注目したいのが、石垣に刻まれた線です。

これは明治29年の大洪水の時に浸水した高さを示すもので、当時の惨状を後世に残すために、石垣に刻まれたものです。旅の後から知りましたが、明治29年は7月と9月の2回も洪水が起きた大変な年でした。洪水の被害は凄まじく、大垣の街が1階の建物の屋根を残して浸水したほどで、こんな場所にまで水が流れ込んできたのかと思うと、いかに悲惨な洪水だったのかがよくわかります。

現在の大垣は夏は水まんじゅうが売られ、湧水巡りが涼を誘い、水の都の良い面が強調されていますが、この土地には洪水と常に隣合わせに生活してきた歴史があります。

観光地としての大垣

大垣は松尾芭蕉が奥の細道の旅を終えた場所としても知られており、奥の細道むすびの地記念館があり、その近くには船町港跡があり、桜の季節には水路を舟で、GWの新緑の季節には桶で川下りを楽しめます。

旅をした3月は水が少なく寂しい光景でしたが、GWの季節になると初夏のいい景観を楽しめるようです。水まんじゅうを食べながら、湧き水マップを片手に市内を歩いてみるのが面白そうです。

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