【旅8日目】後半 奈良1日観光 東大寺と薬師寺と唐招提寺へ

日本一周
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東大寺

前回の続きです。春日大社を参拝した後は、東大寺へ向かいます。

お土産屋のある道を15分ほど歩くと、東大寺の南大門が見えてきます。

奈良に来たら是非とも観ておきたいのが、この南大門です。高さ25mの巨大な門は、奈良時代に造られのち平安時代中期(900年頃)に台風で倒壊し、その後200年経過した鎌倉時代に再建されました。源平の争乱期に平重衡軍により東大寺の大仏殿が焼失し、その再建が急がれたなか南大門も一緒に再建されました。大仏殿は戦国期の松永久秀と三好三人衆との戦いで焼失してしまいましたが、この南大門は戦火を免れ鎌倉時代の建築様式を残す貴重な建物であります。

東大寺の再建には宋式の最新技術が用いられ、短い工期で巨大な建物を造ることが可能な「天竺様」が使われました。少ない用材で巨大な建造物を造るのは木材では例がないもので、それまでの工法を変えた正に画期的なものでした。誰でも観てその特徴が分かるのが、柱に木材を差し込んだ組み方と、天井がない建て方です。養和の大飢饉と源平の争乱という社会情勢のなかで、短期間に経費を削減したこの天竺様は、今では大変貴重な鎌倉時代の建築様式なのです。残念ながら旅の時には知らず後から知りました。南大門を訪れた際は、下から見上げて写真を撮ることをお勧めします。

運慶・快慶によって造られた金剛力士像も有名ですが、これも寄木法により効率重視で造られたものです。運慶・快慶を含む4人の大仏師とその配下にいる大工や彫り師が分担制でパーツを造り、それぞれの部品を組み合わせて造られています。重源の命を受けてから僅か72日で二体の仁王像を完成させたと伝えられています。

東大寺は1180年(治承4年)に平重衡と興福寺との戦乱で焼失しますが、仏教は国を護るものとされていた当時、鎮護国家を象徴する大仏殿が焼失することは多くの貴族・寺院に衝撃的なものでした。焼失した翌年には養和の大飢饉が起こり、源平の争乱が本格的になりましたが、人心を静めるため、また戦争で亡くなった死者の霊を鎮めるために再建が急がれました。

重源が経済面では勧進により資金を調達し、技術面では宋から技術者を招いて新技術を導入して再建にあたり多大な貢献をし、戦争下でありながらわずか5年で再建されました。

拝観料を払って、大仏殿に入ります。

大仏殿
日本最大の木造建築で国宝に指定されています。奈良時代の789年に完成した大仏殿は、1180年と1567年の戦火で消失し、現在の大仏殿は1709年(宝永6年)に再建されたものです。

大仏殿の大きさは正面が57m、奥行きが50m、高さが47mあり、その大きさに圧倒されてしまいますが、奈良時代の創建当初は正面が86mあり、なんと現在の1.5倍もの大きさだったようです。

東大寺の大仏(奈良の大仏)。高さ15mの盧舎那仏(るしゃなぶつ)です。大仏が巨大なのは、宇宙的規模の壮大な教えに基づいているからです。人間の世界は4つの段階があり、それが仏の世界になるとさらに何千、何万となり、その広大で宇宙的な仏教世界に盧舎那仏がいるということで、巨大なのだそうです。人間の世界や仏の世界は大仏の台座にある蓮弁に細かく描かれています。下の写真の白くなっている部分です。これも後から知りました…。

創建当時は金箔が塗られており、当時奥州で発見された大量の金が使われたとされています。全てが奥州産だった訳ではないらしいのですが、その量は9トンだったと。

大量の金が塗られたということは大量の水銀が使われたということです(調達された水銀の大半は、三重県多気郡にある丹生鉱山のものだと考えられています)。当時の技術では金を塗るのにその5倍の水銀が必要だったされ、水銀と混ぜた金を塗った後に熱で水銀を蒸発させて金を像に塗り、その作業をした人達は短期間に多くの水銀蒸気を吸い中毒症に陥ったともいわれてます。大仏殿にはそうした多大な人命が投入された一面もあるのです。

奈良時代の大仏造立はとてつもなく大きな事業であり、260万人が従事し4500億円以上の費用がかかったといわれています。260万人という数は当時の日本の人口の約40%に当たるとされ、日本に住む約4割の人間が建立に携わっていたなんてこともいわれています。現代では見当もつかないほどの、途方もない規模の大事業であったということが理解できます。

大仏殿の後は東大寺ミュージアムへ(500円)。奈良時代に造られた千手観音立像をはじめとした仏像を観ることができます。

東大寺ミュージアムのパンフレットから

奈良時代に造られた日光菩薩・月光菩薩は、塑像にも関わらず体の一部が欠けることなく手を合わせていて、感動を覚えました。

東大寺ミュージアムのパンフレットから

旅の時には知りませんでしたが、平安時代の建築様式を鑑賞したいのなら東大寺にある法華堂と転害門がおすすめです。戦乱による焼失を免れた数少ない建物で、鎌倉時代の修復により一部変わっていますが、基本的な構造は平安時代のものとされている建物です。

そしてもったいないことに、当時は興味がなく立ち寄らなかったのが正倉院。奈良時代から現在に至るまで、戦乱などの人災や雷・台風などの天災から焼失を免れてきた建物で、奈良時代の古文書の99%が残されている貴重な遺産が東大寺の近くにはあります。正倉院の面白さは天皇のための高価なお宝だけでなく、当時の役人が使っていた衣服や文具、書類といったいわば一般庶民の遺物も残されているところにあり、一目見ておきたい歴史建造物です。

壮大な奈良の大仏と東大寺の南大門を鑑賞した後は、薬師寺に向かいます。近鉄奈良駅へ行き、私鉄で西ノ京駅で降ります。夏の奈良は暑く、暑さのためぼうっとしていたのか、奈良国立博物館に行くのをすっかり忘れてしまいました。

近鉄奈良駅から電車に乗り途中、大和西大寺で乗り換え、西ノ京駅に降ります。奈良駅から15分もかかりません。

薬師寺

西ノ京駅から徒歩1分、薬師寺に到着です。興福寺と共に法相宗の大本山で、世界遺産のお寺です。

法相宗とは、飛鳥時代から奈良時代に開かれた奈良仏教、南都六宗の一つで日本における現存最古の宗派です(南都六宗のうち、現在まで続いているのは法相宗と律宗、華厳宗の3つのみです)。阿頼耶識(あらやしき)、末那識(まなしき)という深層意識が心の奥にあるということを認めている宗派で、私たちの認めている世界はすべて自分が作り出したものであるという捉え方をするのが法相宗の特徴です。十人の人間がいれば十の世界があるという考え方です。

薬師寺
奈良時代には「南都七大寺」として、東大寺や法隆寺などと並んで朝廷の保護を受けていた大寺院です。1300年の歴史をもつお寺ですが、長い歴史のなかで数々の天災や人災により、東塔を除く全ての建物が火災により消失しています。東塔のみは奈良時代のものらしいです。

中門

回廊

金堂

本尊を安置するお堂で、薬師寺の中心となるお堂です。

金堂の右にあるのが、東塔です。三重塔に「裳階(もこし)」という小さい屋根が付いているため、六重塔のように見えるのが特徴です。

東院堂

床が高くなっています。奈良時代では土間が普通だったのですが、湿気や水害から守られるよう床を高くしているのは、鎌倉時代に造られたことを示しています。禅の影響を受けた造りとも言われています。

大講堂

金堂よりも大きいのですが、これは古代の伽藍の特徴なのだとか。南都仏教が学に力を入れ、行動に多くの学僧を集めるための造りのようです。

薬師寺の休憩所にある瓦の説明

古代日本では瓦は宮殿や寺院、大貴族の邸宅と限られた場所にしかありませんでした。重い瓦の屋根を建てるにはしっかりとした柱と土台の大きな石が必要で、財力がないと建てられませんでした。今では珍しいものではありませんが、瓦は当時は富や権力の象徴でもありました。

蓮の植木

インドが原産地で仏教との関わりの強い花として知られています。蓮の花は7月~8月が見頃で白やピングの花を咲かせます。花が咲くのは、午前中で午後には閉じてしまうものが多いようです。

蓮の実は栄養価が高く高級食材としても知られています。

味は生で食べると甘みがあり水みずしいらしく、茹でた落花生のような味がするそうです。蓮の花が咲き終わった後に芯にできる種を、熟して茶色になる前に収穫しますが熟してしまうとカチカチになり、皮を剥けなくなるそうです。実が白いうちに食べるのがいいのですが、生で食べられるタイミングが非常に短く旬の食べ物となっています。一般的には蓮の実とご飯を一緒に炊いて食べることが多く、ベトナムでは蓮の花の香りを緑茶に移した「蓮茶」が飲まれているようです。瓦の説明や蓮と、意外なものを見ることができました。

薬師寺のあとは唐招提寺へ向かいます。歩いて5分くらいです。

唐招提寺

立派な南大門を通り中に入ります。再建されたものですが、創建当時の天平時代の様式を知ることのできる門です。

唐招提寺
南都六宗の一つ、律宗の総本山です。鑑真が開いた寺として知られています。鑑真は唐の著名な高僧でしたが、大和朝廷からの熱心な招きに応じ来日しました。しかし、日本に来るまでの道のりは困難を極め、海難で5度の渡航失敗を重ね、失明しながらも6度目の航海でようやく来日しました。鑑真の長く険しい航海の様子は井上靖の小説『天平の甍』に詳しく描かれています。

鑑真が日本で活躍したのは76歳までの10年間で、5年は東大寺で過ごし残りの5年を唐招提寺で過ごしました。東大寺に戒壇を造り多くの日本の僧に戒律を授けたことが知られていますが、鑑真が唐から持ち込んだ経典や仏具は日本の仏教に多くの影響を与えました。

金堂

現存する唯一の奈良時代の建物で、8世紀後半創建時の姿を残しているといわれています。中に入ると千手観音立像、廬舎那仏坐像、薬師如来立像と四天王像を観ることができ、千手観音立像は実際に手が1000本あるといわれています(厳密には、壊れている手があるので953本ですが)。

礼堂

南北に長い造りになっています。

経堂

日本最古の高床式の校倉(あぜくら)です。唐招提寺創建以前の新田部親王邸の米倉を改造したものといわれ、唐招提寺で最も古い建造物といわれています。

鑑真は僧侶にあるべき戒律を日本にもたらした名僧とされていますが、日本の医学に多大な貢献をした人物でもあります。鑑真が日本に持ち込んできた薬や薬草に関する知識は、その後の日本の医学を大きく進歩されたといわれています(別館で書いているので興味のある人はこちらもどうぞ)。

唐招提寺を参拝した後はJR奈良駅に戻ります。近鉄奈良駅のガストで食事をして京都に向かいます。ガストではさばの味噌煮定食を頼みました。普段なら肉を食べますが、暑さのせいで無性に味噌味のものを食べたくなりました。それにしても大変な暑さです。1日奈良を観光するとなると、やはり夏は避けるべきだと痛感します。

当初の予定では、京都に向かう途中宇治駅で降りて平等院鳳凰堂に行く予定だったのですが、時間がなくなり通過しました。お寺は夕方早く閉まるのがネックです。17時に閉門する所が多く、ゆっくり見るとなると16時にはお寺に着いていないといけません。朝早くから観光を初めても1日で観れる数は限られてしまうのが現状です。

奈良県を1日観光した感想ですが、急ぎ足でできるだけ沢山見て回ろうとしましたが、最低でももう1日は欲しいところでした。奈良国立博物館に行けませんでしたし、奈良公園の吉城園や依水園といった日本庭園にも行けませんでした。平城京跡に行ったり、天理市や桜井市、橿原市まで足を伸ばして歴史のある神社やお寺に参拝するなら、2日は欲しいところです。

食べものでは、柿の葉寿司や奈良漬、三輪そうめんや吉野葛、そして日本酒が有名なので、奈良に行った際には是非とも食べておきたいものではあります。

さて、JR奈良駅から電車に乗ること約1時間、17時前に京都駅に到着です。

明日からの京都観光に備えてバス停を確認しますが、途方に暮れます。

バス乗り場が多過ぎてよく分かりません。そもそもバスターミナルにあるバス乗り場の数が多く、その中の一つのバス停から出るバスも何本もあり、とにかく多くて整理できません。夕方の時間帯は帰宅の人で列ができ、大きなリュックを背負って時刻表やら路線図やら確認できるような状態ではなく、仕方ないので下調べはネットカフェですることにします。地下鉄で河原町駅まで行き、近くにあるネットカフェに入りました。

ネットカフェでバスの下調べをしますが結局よく分からずスムーズに乗り降りできる気が全くしないので、明日の予定を変更することにしました。比叡山延暦寺や彦根城に寄りながら東京方面に戻り、一旦東京の自宅でじっくり調べることにします(それでも結局後日京都でバス停が分からず乗りそびれてしまいましたが)。

最後に、参考までに今日使ったお金です。6ヵ所寺社巡りをしましたが、拝観料・宝物館や博物館の入館料・朱印代を合わせるとかなりの額になりました。交通費もそこそこです。名所巡りをすると意外とお金がかかるのを痛感しました。

旅に必要な費用:4480円(ネットカフェ1780円、朝食300円、昼食ガスト1000円、夕食サイゼ1000円、コインロッカー400円)
交通費:2170円(法隆寺までの電車賃640円、奈良へ220円、近鉄西ノ京駅へ240円、京都へ710円、京都地下鉄河原町へ360円)
拝観料や朱印代:6600円(法隆寺参観料1500円、朱印代300円、興福寺朱印300円、興福寺国宝館800円、春日大社500円、朱印代300円、東大寺参拝料500円、東大寺朱印300円、東大寺ミュージアム500円、薬師寺参拝料500円、朱印代300円、唐招提寺拝観料500円、朱印代300円)
合計13250円…かなりの金額です。やはり拝観料や朱印代が高くつきます。

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