今回は世界遺産に登録され、京都でも屈指の人気を誇る清水寺の知られていない歴史をご紹介します。観光地として整備され、季節を問わず多くの参拝者が訪れる清水寺には、現在では想像できない意外な歴史があります。風葬地で知られる鳥辺野と観音霊場にふれながら、清水寺の歴史を紹介していきたいと思います。清水寺の歴史を知るには、近くにある六波羅蜜寺と六道珍皇寺に目を向けるのもおすすめです。こちらの寺院も併せて是非ご覧ください。
旅をしたのは2022年3月中旬です。
清水寺の創建
清水寺は奈良時代の後期、宝亀(ほうき)9年(778年)に、興福寺の僧・賢心(けんしん)が夢のお告げを受けて創建したのが始まりと伝えらえている、法相宗の寺院です。今から約1250年前の奈良時代後半に創られた歴史のある寺院です。
平安京ができる以前からの歴史を持つ、京都では数少ない寺院の1つで、滋賀の石山寺や奈良の長谷寺と並ぶ日本でも有数の観音霊場です。
御本尊の十一面千手観世音菩薩は秘仏で33年に一度のみ開帳され、普段は参拝者はお堂に懸けられている懸仏を拝みます。
十一面千手観世音菩薩の御開帳は2000年にあり、次回は2033年の予定です。
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秘仏は密教の影響を受けたもので、清水寺は平安時代中期から真言宗を兼ねて密教を取り入れました。
33年という周期は、清水寺のHPによると(「読む」→「一」秘仏十一面千手観音立像)、観音経に記されている観音菩薩の功徳に由来します。
その姿を自在に変化させることで一切衆生を災厄から救うとされる観音さまは、その変化の数が三十三身です。
そこから御本尊を33年に一度のご開帳と決めていますが、そうした寺院は他にもあるようです。
また『西国三十三所霊場』などの名称にも表れているように、観音信仰にとって33という数字は特別なものなのです。
清水寺で33年に一度のご開帳がいつから始まったかは定かではありませんが、安永2年(1773年)に30数年ぶりのご開帳がおこなわれたことが記録に残っており、以降は33年ごとのご開帳が繰り返し続けられてきたことが分かっています。
清水の観音や観音堂は『枕草子』や『源氏物語』、『今昔物語』に描かれており、平安時代に観音信仰の霊場として貴族の信仰を集めました。
平安時代中期には既に舞台があり、その後、参詣者が増えるにつれて拡張されたといわれています。
※出典:島田裕巳『京都はなぜいちばんなのか』
清水の舞台からの飛び降り
舞台は御本尊を拝むための場所であり、また神楽などを奉納する場所でした。
ですので、本来、本堂に背を向けるものではありませんが、いつからか舞台から周りを見渡すようになり、舞台の下を眺めるようになり、そして舞台から身を投げる者が出るようになりました。
ご存知の方も多くいらっしゃるでしょう、清水の舞台からの飛び降りです。
一大決心をすることを「清水の舞台から飛び降りる」と言いますが、実際に参詣者がこの舞台から飛び降りるのが江戸時代に流行ったといいます。
飛び降りという命懸けの祈願をすれば観音菩薩の慈悲により命が助けられ、願いが叶えられると信じられたのです。つまり願掛けのために清水の舞台からの飛び降りが行われたのです。
子供から老人まで男女200人以上が飛び降り、中には二回飛び降りる者もいたといい、自分のためではなく、主人のために願いを立てて飛び降りた者もいました。
奉公人などの身分の低い者が多く、大半が京都に住む者で中には地方から来た者もいたことが記録に残されています。
当時は舞台の下に木々が繁り土が柔らかく、生存率は85%を超えたようです。
とはいえ、60歳以上は助からず、中には自らの命を絶つために飛び降りた者もいたと考えられます。
※出典:島田裕巳『京都はなぜいちばんなのか』
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『京都はなぜいちばんなのか』によると、江戸時代の元禄7年(1694年)から文久4年(1864年)までの171年間に寺の役人が記した『成就院日記』に飛び降りが記されているそうです。そこから分析した本の『実録「清水の舞台より飛び落ちる」ー江戸時代の『清水寺成就院日記』を読む』に、清水の舞台から飛び降りた人のことがまとめられているようです。
それによると234人が飛び降り、中には二度試みた者がおり235件の飛び降りがあり、男性が160人、女性が63人だったそうです。
12メートルの高さがあり、最年少は12歳で最年長は80歳、京都の人間が全体の70%で、東北や四国からやってきた者もおり、社会階層は奉公人などの身分の低い者が多く、僧尼が15人いたが身分の低い僧尼だったといいます。
自らの祈願のためではなく、主人のために願いを立てて飛んだ者もいました。
30数名、15%が亡くなったようです。
観音霊場で行われていた身投げ
江戸時代に、願掛けために飛び降りが流行したのは、何も無かったところから急に偶然発生したというよりは、その元となるものが以前にあったと考えるのが自然に思えます。
それが平安時代末期に流行した末法思想から発生した身投げだと考えられます。
この世の終わりを恐れ、またはこの世を儚く思い、極楽へ往生しようと願い、平安時代末期から修験者をはじめとした者が清水寺の舞台から飛び降りたといいます。
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音羽の滝は観音様のおわす補陀落浄土に繋がっていると信じられ、清水の舞台から飛び降りれば補陀落浄土に行けると信じられていたようです。清水寺の奥にある山が聖と俗との境界、つまりはこの世とあの世の境界であり、音羽の滝は聖なる世界から流れ出て俗の世界を潤していると畏敬されてきました。古くから聖なる水として讃えられきた音羽の滝では、多くの修験者が滝行を行ったといいます(『古寺巡礼26 清水寺』より)。
一説には、清水の舞台は遺体を投げ込むためにわざわざ造られたといいます。舞台の下は今よりも深い谷間があり、遺体を処理する場所だったというのです。
※出典:樋口清之『うめぼし博士の逆日本史〈貴族の時代編〉平安→奈良→古代』
鳥辺野に建つ寺 清水寺
清水寺にこうした死のイメージがあるのは、鳥辺野が大きく関係しています。
高校の古文で習ったのを覚えている方もいらっしゃるかと思いますが、鳥辺野といえば、化野と蓮台野と並ぶ京都の有名な風葬地です。
鳥辺野の明確な範囲は定まっていないようですが、大まかに清水寺から大谷本廟(おおたにほんびょう)の辺りを指すとされ、鴨川から清水寺へ向かう清水坂は鳥辺野だったといいます。
つまり清水寺は風葬地にあったのです。
平安時代は、火葬は高価な油を使うため身分が高い者に限られ、一般の人は風葬でした。京都で亡くなった人の亡骸は鴨川を渡り鳥辺野に運ばれ、野ざらしにされました。
清水寺がそうした場所だったからこそ、庶民の観音信仰が深まったのではないかと思えます。死後、鳥辺野に運ばれ野ざらしになっても、清水寺の観音様によって来世で救われると信じられたのではないでしょうか。
鳥辺野の南が貴族や皇室の墓所だったのに対し、北の清水寺の南の方は庶民の墓所だったといいます。そのことからも清水寺は身分の高い者よりも京都の民衆に近い場所だったことが分かります。
※出典:『古寺巡礼 京都5 六波羅蜜寺』
京都では疫病や飢饉が発生しあまりに多くの人が亡くなると、鳥辺野まで運びきれず鴨川の河原に骸が並んだことが『方丈記』に書かれています。
広い意味では鴨川はこの世とあの世、此岸と彼岸を分けるものでもありました。
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鴨川に骸が並んだことは多くの史料に記されていますが、鴨川の全ての流域に死体が集められた訳ではありません。現在の京都御所や下鴨神社のある、鴨川の上流は禊が行われる綺麗な、聖なる場所とされていました。
下流になり皇族・貴族の住居から離れ下流に行くにつれて、庶民の地となり、普段は屋台や見世物小屋などが建てられ活気のあった場所だったようです。
庶民の信仰によって守られ観光地となった清水寺
清水寺にこうした一面があるのは意外です。旅をするまで知りませんでした。しかしこうした清水寺の歴史は観光地としてマイナスなものには思えません。むしろ逆で、もっと多くの人に知られてしかるべきものに思えます。
現在も清水寺に多くの人が訪れるのは、昔から多くの人によって信仰されてきたからでしょう。自分が死んでも清水の観音さまによって救われる、親しい者が亡くなっても観音さまの慈悲で極楽へ往生できる、そうした信仰が多くの庶民を救ったのは想像に難くありません。
豊臣秀吉が当時最大の大仏を造った方広寺を、清水寺の南に建てたのは、一説には清水寺へ向かう多くの参詣者を方広寺に向かわせようとしたからと言われています。そのために五条大橋を南に架け替えました。それほど江戸時代には既に庶民の清水寺への信仰が篤かったことが分かります。
※出典:『カラー版 地形と地理でわかる京都の謎』
平安遷都と同時期に創建されたとされる興福寺の末寺(まつじ)の清水寺は、興福寺と延暦寺の南都北嶺の争いに度々巻き込まれましたが、比叡山の圧迫に負けることなく生き延びました(永万元年・1165年には延暦寺の僧兵の乱入によって焼亡している)。
それができたのも多くの人の信仰を集めその支持を得たからで、それは清水寺が死を扱い、民衆に近い存在だったからからではないかと思えます。
京都に住む民衆の清水寺への信仰が多くの参詣者を集め、それが江戸時代以降、観光地となりその後も今日まで続いているのではないでしょうか。
本来の清水寺への参詣ルートは昔の五条橋、現在の松原橋を歩いて鴨川を渡り、真っすぐ進み、六波羅蜜寺と六道珍皇寺の間を進み、清水坂を上って参拝するものでした(『京都の歴史を歩く』)。
興味のある方はそのルートで参拝してみてはいかがでしょうか。
僕自身も機会があれば、一度そのルートで歩いて、またブログや動画で紹介したいと思います。
今回は書きませんでしたが、『京都の歴史を歩く』では鴨川から清水寺への参詣道にハンセン病患者が集まる施設があったといいます。清水寺の観音信仰はそうした人たちの心の拠り所でもありました。興味のある方は是非一読をお勧めします。
参考文献
島田裕巳『京都はなぜいちばんなのか』
『古寺巡礼26 清水寺』
樋口清之『うめぼし博士の逆日本史〈貴族の時代編〉平安→奈良→古代』
『古寺巡礼 京都5 六波羅蜜寺』
清水寺のことは直接書かれていませんが、清水寺の周辺の鳥辺野の歴史を簡潔に記しています。
『カラー版 地形と地理でわかる京都の謎』
小林丈広・高木博志・三枝暁子『京都の歴史を歩く』
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