【京都】明治期の大偉業 琵琶湖疏水を知れる京都の名所 蹴上インクラインと南禅寺水路閣(電車日本一周補完の旅7日目①)

京都府
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はじめに

今回は京都にある琵琶湖疏水の遺構、蹴上インクライン南禅寺水路閣をご紹介します。明治維新により新時代を迎えた京都は、幕末の動乱と東京遷都による人口減少により衰退しました。この衰退を食い止めるべく琵琶湖疏水という、琵琶湖の水を京都に通しその水で動力をつくり、それを工業に使い産業を興し京都を復興させるという、これまでに例のない大規模な土木事業が行われました。

技術も資源も資金も乏しかった明治時代中期、実現不可能と思われたこの難工事は、多くの人の強い意志と努力により見事完成しました。琵琶湖疏水は設計から測量・工事までのすべての工程を日本人の手で完成させた初めての事例でもありました。

列強からの植民地化の危機にあり、いち早く近代国家になろうと急ぎその道を模索し続けた明治時代、日本人の手により成し遂げられた琵琶湖疏水は、まさに日本の近代化を象徴する金字塔です。

今回は京都の衰退を救い今もなお重要なインフラとして活躍し続けている琵琶湖疏水について、蹴上インクラインと南禅寺水路閣の二つの日本遺産を観ながら、ご紹介したいと思います。

鴨川から蹴上インクラインへ

蹴上インクラインは京都市の東山、地下鉄東西線の蹴上駅の近くにあります。

インクラインを訪れた2022年3月中旬は、鴨川近くのホテルから歩いて向かいました。

これからご紹介する琵琶湖疏水は、琵琶湖の水を京都市に引き入れて、鴨川に放出する水路です。
鴨川は淀川に繋がっているので、疏水により琵琶湖と淀川が繋がり舟運が栄えました。
※物資だけでなく観光客を乗せた遊覧船も行き交い、経済効果あった

琵琶湖から引き入れた水は水力発電灌漑・防火・生活用水に使われ、明治期に衰退した京都を救いました。水力発電の電力で日本で初めて電車が運行され、また琵琶湖の水を急速ろ過し飲料水として家庭に配るなど、先進的な施策が行われました。琵琶湖疏水は現在も京都市の生活用水や工業・農業用水に利用されています。

YouTubeでは紹介できなかった内容です。
琵琶湖疏水が上水道に利用されたのは明治45年で、琵琶湖疏水ができてから後のことですが(明治23年に完成)、当時は水道水を急速ろ過して配水するのは日本初でした。明治初年に衰退した京都は、琵琶湖疏水のおかげで日本で先進的な施策が行われる都市になりました。
日本遺産琵琶湖疏水のHPを参照

鴨川から八坂神社や知恩院までの道は昔から花街として知られている祇園があり、雰囲気のいい景観を楽しめます。竹などを丸く曲げた防護柵は犬矢来(いぬやらい)といい、犬のおしっこ除けなのだそうです。

この道の隣は新橋通りといい祇園新橋伝統的建造物群保存地区として知られています。写真で紹介している場所は、新門前通りです。

幕末の京都は戦乱で市街地が荒廃しました。元治(げんじ)元年(1864年)の禁門の変の際にはどんどん焼けという火災が起こり、京都御所から現在の京都駅の間が広範囲にわたり燃えました。

そして明治2年に東京遷都が行われると京都の人口は35万人から20万人余りへと減少し、有力商人が東京に移り税収が減り、衰退しました。
※人口が3分の1になったなんて話もある

琵琶湖疏水事業が計画された要因には、そうした京都の衰退がありました。

浄土宗の総本山であり法然上人縁の地の知恩院から北に進むと、遠くに平安神宮の鳥居が見えてきます。
※平安神宮は平安遷都1100年を記念して明治28年(1895年)に創建された

後から知りましたが、平安神宮にも琵琶湖疏水の水路があります。
※神宮の防火用水に使われた

そして東に進むと蹴上発電所が見えてきました。

この発電所は、明治45(1912)年2月に完成した第2期の発電所が保存されている建物で、関西電力株式会社によって定期的に見学会が行われています。

そして、その奥には琵琶湖疏水の遺構、蹴上インクラインがあります。

蹴上インクライン

インクラインとは舟を台車に乗せケーブルカーと同じ原理で運ぶ傾斜鉄道です。上流と下流の二つの船溜の約36mの高低差を琵琶湖疏水の水力発電でおこした動力で台車を動かしました。
※船溜:船頭たちが休憩する場所。一般的には荷物の積み下ろしをする場所を指すが、蹴上船溜と南禅寺船溜はインクラインのおかけで荷物の積み下ろしをする必要がなかった。

上流の蹴上船溜から下流の南禅寺船溜まで全長約582mあり、この長さは建設当時世界最長でした。

インクラインのおかげで舟は貨物の積み下ろしをせずに、高低差を乗り切ることができました。明治24(1891年)から三十石船の運航が始まり、米や炭 木材 石材などが運ばれ物流が拡大し経済と産業が発展しました。

大津と京都を結ぶ東海道は江戸時代から交通の要衝として多くの物資が運ばれてきましたが、大津側には逢坂峠、京都側には日ノ岡峠があり、通行の難所でした。琵琶湖疏水とインクラインができ舟運が開けたおかげで、大津・京都・大阪間の物資の往来がより活発になったのでした。
※逢坂峠については別の記事で後日紹介します。日本初の線路ともいわれる車石と呼ばれる牛車の道路があった場所です。

舟運はその後鉄道と道路ができると衰退し昭和23年(1948年)に役割を終え、現在はその廃線跡が京都市の文化財に指定されレールが形状保存されています。

インクラインの線路の隣には、琵琶湖の水が流れています。

インクラインの両側にはソメイヨシノやヤマザクラが植えられており、桜の名所としても知られています。訪れたのは3月中旬の桜の咲く前でしたが、日曜というのもあり朝から観光客が結構いて驚きました。

インクラインに沿って降りて行くと、琵琶湖疏水を詳しく紹介した無料の資料館の
琵琶湖疏水記念館があります。

琵琶湖疏水事業

琵琶湖疏水記念館で知った内容を基に琵琶湖疏水についてもう少しご紹介します。

琵琶湖疏水は滋賀県大津市から京都伏見までの全長約20kmに渡り琵琶湖の水を引き、疏水の水力で新しい工場を興し舟で物資の行き来を盛んにし、京都を発展させようとした工事でした。

明治14(1881)年に京都府知事の北垣国道が計画し、4年後に工事を開始し、更に5年後に第1疏水を完成させた事業です。延べ400万人の作業員が工事に従事したといいます。

※明治14(1881)年琵琶湖疏水計画
 明治18(1885)年工事開始
 明治23(1890)年第1疏水完成
 明治24(1891)年6月水力発電開始

当時の京都府の年間予算の2倍以上という莫大な工事費を要する前代未聞の大事業には、現在の東京大学工学部の前身の一つの工部大学校を卒業したばかりの田辺朔郎が21歳という若さで工事の主任技師に抜擢されました。

京都に琵琶湖の水を引くことは昔からの夢で琵琶湖疏水の構想は江戸時代には既にありましたが(
室町時代からあったとも)、技術面でも資金面でも夢物語でした。琵琶湖から京都まで4つのトンネルを掘って水を通す訳ですが(日本遺産のHPより)、琵琶湖よりの第一トンネルは長さが2,436メートルもありこれは当時日本で最長でした。

明治時代は多くの治水事業や建築事業がお雇い外国人の設計・指揮監督の下で行われましたが、琵琶湖疏水は設計から測量・工事までの全ての工程が日本人の手で行うものだったため、専門家やお雇い外国人、政治家から多くの否定的な声が上がりました。

難関の第一トンネルでは、山の両側から掘り進めていく他にシャフトという、山の上から垂直に穴を掘りそこから山の両側に向けて掘る竪坑方式が田辺朔郎により日本で初めて採用されました。地下水が大量に湧き出るなか蒸気式ポンプで水を排出し作業を進め、ダイナマイトで硬い岩盤を破砕し、カンテラのほのかな明かりの中つるはしで土を掘り、手提げのカゴで運ぶといった、ほとんどが人力による作業でした。
※蒸気式ポンプが届くまでは人力で汲み上げられた

大半の資材を自給自足で賄い、夜に技術者を養成し昼には現場で実践させるというシフトが採られ、また一部区間では囚人が作業に使われました。
※大量のレンガが必要だったため、近くに工場が作られた
※囚人による作業は効率が悪かったため中止された
 出典:田村喜子『京都インクライン物語』

こうした大工事を経て4年と8カ月後の明治23(1890)年に第1疏水が完成し、琵琶湖の水は水力発電や舟運、灌漑、防火、庭園用水などに利用されました。
※第一トンネルの工事に3年6カ月かかった
 出典:田村喜子『京都インクライン物語』

琵琶湖疏水記念館の前を流れる琵琶湖の水
噴水は上流の蹴上船溜とこの南禅寺船溜の高低差で水が上がっている
桜の季節には南禅寺船溜から岡崎さくら回廊十石舟めぐりの船が出ている

当初は琵琶湖疏水は水車の動力に用いる計画でしたが、工事の途中、田辺はアメリカへ水力利用の視察に行き、コロラド州アスペンの水力発電を目にし日本にも取り入れることにしました。田辺は北垣知事を懸命に説得し、工事の途中で、当時世界でもほとんど例のなかった水力発電の実用化に踏み切ったのです。

そして明治24年に蹴上で日本最初の一般供給用水力発電所が稼働すると、町に電気が送られ、電灯を灯し、機械を動かす動力に利用されました。

蹴上発電所で使われていた水車(アメリカ製のものを日本で増産した)

蹴上発電所で使われていた発電機(アメリカ製)

琵琶湖疏水記念館の映像ガイダンスの解説は分かりやすく、また展示が豊富でお勧めです。インクラインは人が多くいましたが、記念館は空いていました。インクラインに来た際は記念館に立ち寄るのがお勧めです。

琵琶湖疏水記念館では下水についても詳しく知ることができる

舟を載せた台車がインクライン上を行き来する動く模型もあり、インクラインの理解が深まりました。

琵琶湖疏水の開通により復興を始めた京都は、さらなる発展のために第二疏水を造り水量を増やし水道と市電に使う「京都市三大事業」を明治45年(1912年)に完成させました。
※京都電気鉄道が開業したのは明治28年(1895年)

琵琶湖疏水記念館の前には琵琶湖疏水事業を記念したモニュメントがあります。

※水門を開ける男と水門からあふれ出る命の水、そして琵琶湖からの永遠の恵みへの感謝を表している

YouTubeでは紹介できなかった内容です。
第二疏水は第一疎水に並行して造られました。蹴上船溜の付近で第一疎水と合流します。第一疎水完成後、工業を興し発展した京都では、明治20年代後半にもなると第一疏水の流量では毎年増大する電力の需要が満たせなくなりました。
また、それまでは飲料水を地下水に頼っていましたが、水質・量ともに問題となり(コレラなのどの疫病が蔓延する危険性が高かった)、更なる増水に着手したのでした。
そして明治45(1912)年4月蹴上浄水場より給水を開始し、浄水方式に日本初となる急速ろ過が採用され、約4万人に給水され(当時の京都市人口は約50万人)、その後次第に上水が普及し現在はほとんどが琵琶湖疏水で賄われています。
京都市上下水道局のHPを参照

南禅寺

琵琶湖疏水記念館を観たあとは南禅寺水路閣に向かいます。歩いて10分くらいです。

南禅寺といえば精進料理をルーツとする湯豆腐がこの辺りで発祥したことが知られています。湯豆腐の歴史は別館で紹介しているのでそちらも是非ご覧ください(こちらをどうぞ)。

せっかくなので南禅寺についても少しふれておきたいと思います。
(水路閣を知りたい方は飛ばしてください)

南禅寺は禅宗で一番格式が高い寺院です。鎌倉時代から室町時代に台頭した禅宗の中でも最高位の権威が認められたのが五山ですが、その「五山之上」、つまりは別格とされたのが南禅寺です。
※五山の台頭については天龍寺の記事をどうぞ。←準備中

鎌倉時代に亀山法皇が創建した南禅寺は皇室が建立した最初の禅寺であり、皇室が経済的支援者である壇越(だんおつ)に初めてなった禅寺であるのが格式が高い理由です。
※出典『俯瞰CG・イラストでよくわかる日本の古寺』

南禅寺の三門は高さ22メートルあり日本三大三門の一つとして知られています。
※日本三大三門:知恩院、南禅寺、久遠寺
 日本三大門:南禅寺、東福寺、久遠寺らしい…です

案内板には江戸時代の寛永5年(1628)に藤堂高虎が大阪夏の陣で亡くなった家来の菩提を弔うために再建したもので、ご本尊や十六羅漢、徳川家康、藤堂高虎の像、一門の重臣の位牌が安置されていることが書かれています。

南禅寺の嬉しいのが、拝観料を納めればこの三門に登ることができるところです。

全国には有名な山門が幾つかありますが登れる機会はなかなかないのではないでしょうか。
※山門:寺院の門の総称
 三門:禅宗の門 本山などの重層の門
 と使い分けられることが多いらしい…

急な階段が寺院建築らしさを体感でき、門の上からは京都の市街地が見えます。
(ついでに、南禅寺の三門は歌舞伎で石川五右衛門が「絶景かな」と言ったのが知られていますが、当時は三門は再建されていませんでした)

三門は三解脱門の略で、人間の一番の煩悩である欲望・怒り・愚かさから抜け出すことを願っていると言われています。
三毒:貪欲(欲望)・瞋恚(怒り)・愚痴(愚かさ)
また空・無相・無願の三三昧を表し、仏さまに何かを願う気持ちを無くし無心に祈りなさいということを表しているとも、三乗と総称されるいろいろな仏道の違いを超えて仏門に入ることをさしているとも言われています。
※出典『知っておきたいお寺の基本』
そのため一つの門に三つの入口がある造りになっているのです。

三門には仏像が祀られていますが、それは仏の世界に足を踏み入れようとする参拝者を仏様が迎えいれているからなのだそうです。こうして実際に内陣に安置されている仏像を拝むと、その意図をより実感することができます。

三門の回廊から内陣に祀られている仏像を拝むこともできる

南禅寺水路閣

さて話を琵琶湖疏水に戻して水路閣をご紹介しましょう。

南禅寺の境内にある水路閣は田辺朔郎が設計・デザインをした、レンガと花崗岩で造られたアーチ型の橋脚です。

高さが約9mあります。第1疏水と同時期の明治20年(1887年)9月に疏水の分線として造られ明治23年3月に完成しました。

インクラインの上流で分かれた琵琶湖の分水がこの水路を通って南禅寺の北の町を流れ、沿線の社寺や庭園の水力利用、灌漑用水、防火用水に使われました。水路は当時は約8.4キロメートルありましたが現在では約3.3キロメートルに短くなっています。南禅寺と慈照寺の間にある哲学の道も琵琶湖疏水分線です。

旅が終わってからこの動画を作る時に初めて知りましたが、明治時代まで京都は水がそれほど豊富ではなかったようです。一千年の間都が置かれていたイメージや伏見や二条城の動画でご紹介した錦市場のような、地下水が豊富な場所のイメージから、京都は水が豊かだと思っていましたが、全体的には水が不足していたようです。

雨が降らないと井戸が枯れ鴨川の水が減り、灌漑用水はもちろんのこと防火用水が不足し、また衛生面でも問題がある場所が全体的には多かったのだそうです。
※出典:田村喜子『京都インクライン物語』

そのため琵琶湖疏水の分水をこの辺りに造り、鴨川の上流に向けて水を流したのでした。南禅寺周辺の土地に琵琶湖の水が流れる様子は琵琶湖疏水記念館で観ることができましたが、その範囲の広さに驚きました。

この水路閣を調べた時、南禅寺に相当配慮して造られたことが書かれており、南禅寺が水路閣の建設に否定的だったような印象を受けましたが、『京都インクライン物語』には南禅寺は境内を水路閣が通ることに一切の難色を示さず、全面的に協力したことが書かれていました。

釣り禁止の文字がありますが、琵琶湖の魚もまた疏水を通って京都の町や鴨川、そして淀川へと移動しています。平安神宮の水路には今では絶滅の危険がある琵琶湖のタナゴが生息しているのだそうです。

蹴上疏水公園・蹴上船溜

さてインクラインに戻り、少し上の方を歩いてみましょう。

琵琶湖疏水は計画してから工事に取りかかるまでに4年の歳月を要しましたが、それは各方面への説得にそれだけの期間かかったからでした。特に滋賀県は琵琶湖の水位が下がることを懸念し、大阪府は淀川周辺の洪水が増えることを懸念し、強く反対し実現に時間がかかりました。

また工事が始まってから完成するまでの明治18年~23年は大変な時代でした。明治15年から松方デフレで不景気になり18年・19年は自殺者がピークになり、19年にはコレラや天然痘、チフス、赤痢が流行り全国で14万以上の死者が出ました。
※出典:色川大吉『日本の歴史21 近代国家の出発』
 疫病の流行で明治10年~20年代の20年間に80万人の死者が出た 

近代化を目指す明治政府はとにかくお金が足りず増税による増税を行った時代で(明治13年から地方税・酒税が増税)、ただでさえ生活するのが大変なのに、琵琶湖疏水周辺の住民は疏水の工事費用のために更なる税金がかけられることになり、住民の苦労は相当なものだったと思われます。

残念ながらそんなことを知ったのは旅が終わってからでしたが、琵琶湖疏水という大事業が行われた当時の時代背景を知っておくと、よりインクラインや水路閣、記念館を楽しめるかと思います。

YouTubeでは紹介できなかった内容です
伝染病は明治12・19・26年の3年間で四種伝染病の死者が30万8千百余人出て、
また23・26・28年はコレラ・天然痘などが猛威を振るい、明治10年代~20年代の約20年間で80人万を超える死者が出ました。
『日本の歴史21 近代国家の出発』によると、これは明治時代の44年間で行われた5回の対外出兵と日清・日露戦争の死者の総数よりも遥かに大きかったといいます。

それと「近代化を目指す明治政府はとにかくお金が足りず増税による増税を行った時代」と先ほど書きましたが、厳密には明治10年(1877年)から明治14年までは景気がいい時期でした。大久保利通が士族の反乱を危惧して減税をしました。

『経済で読み解く日本史 明治時代』(上念司著)によると、具体的に地租の税率を下げ、地方税の上限を下げました。その後、明治11年(1878年)に大久保が暗殺されると明治政府は緊縮財政を行い、その影響が明治14年に現れ米価が下落し景気が落ち始め、その時期に前年に行った地方税・酒税の増税が響き、景気が悪くなりました。

明治時代は税が金納だったため、米をはじめとした作物の値段が下がると、実質増税になりました。松方デフレにより農作物を作る人も売る人も増税に苦しみました。

写真の右には蹴上浄水場があります。蹴上駅の奥にあります。毎年つつじの時期には敷地を一般公開しています。

蹴上駅の向かいには蹴上疏水公園があります。下調べ不足で見逃してしまいましたが、近くには疏水工事中に事故や病気により殉職された方を弔う為に建てられた殉職者の慰霊碑があります。

弔魂碑と殉職者之碑の二つの石碑があるようで、弔魂碑は明治35(1902)年に田邉朔郎が私費で建立し、背面には殉職者17人の氏名が刻まれているようです。殉職者之碑は昭和16(1941)年に疏水事業を所管していた京都市電気局の職員が建立したもののようです(日本遺産 琵琶湖疏水のHPを参照)。

そして20代という若さで工事の主任技師となり大偉業を成し遂げた田辺朔郎の像があります。

田辺朔郎は琵琶湖疏水を見事完成させた後、多くの名声を得、大学の教授になりましたが、その後も精力的に現地に足を運び日本の近代化に大いに寄与しました。その功績から、日本の近代土木工学の礎を築いた人物として、現在も多くの人から尊敬の念を持たれています。

田辺は北垣知事が北海道に異動すると、彼の依頼を受け、北海道の鉄道敷設計画に従事しました。広大で未開の北の大地を自らの足で踏査し(北海道は当時、熊や狼だけでなく、大量の蚊や虻が容赦なく襲いかかる土地だった)、鉄道の計画をしたといいます。彼の北海道での偉業は、北海道の記事を書く時に紹介します。

第一疎水と第二疏水の合流した水は発電所と浄水場、そして分水に分けられ、発電所に向かう水がこの二本の導水管を通っています。

琵琶湖から毎日200万トンもの水が流れてきているのだそうです。ついでですが、もし琵琶湖の南湖が干上がるようなことがあっても、水利権上滋賀県は疏水を止めることができず、その代わり京都市から滋賀県に毎年疏水感謝金が支払われているようです。
※出典:今谷明『近江から日本史を読み直す』

明治24年に蹴上で日本最初の一般供給用水力発電所が稼働すると町に電灯が灯され、工場の機械化が進み、電気鉄道が走り、京都の町を大きく発展させました。水力発電は紡績、伸銅、西陣織機などの機械、タバコ等の新しい産業の振興に使われたといいます。

京都では明治20年に既に火力発電が行われていましたが、送電時間が短いうえに料金が高く普及しませんでした。そのことからも田辺朔郎の水力発電の実施は彼の知識の高さと先見性がうかがえます。
※出典『図説県史』

こちらの水路は南禅寺水路閣に繋がっているようです。

こちらは蹴上船溜で、インクラインが稼働していた当時は舟がここで台車を乗り降りしていました。

現在は疏水船が運行していて、山科や大津までガイダンスを聞きながら観光できるようです。

トンネルをくぐり琵琶湖疏水を間近に感じられるのが人気なので、機会があればいつか乗ってみたいものです。

琵琶湖疏水を知れる良書『京都インクライン物語』

さて、こまでご覧いただきありがとうございます。蹴上インクラインや南禅寺水路閣、琵琶湖疏水、さらには明治時代について、皆さんの興味関心が少しでも増えれば嬉しく思います。

最後に琵琶湖疏水に興味のある方は京都インクライン物語を一読するのがおすすめです。ノンフィクション作家の田村喜子さんが書かれた琵琶湖疏水事業を扱った本で、絶版なので中古しか手に入らず残念でしたが、琵琶湖疏水について調べた時に疑問だったことが、この本でかなり解決できました。

レビューはこちらをどうぞ↓

明治の大事業 琵琶湖疏水を描いた一冊『京都インクライン物語』 | 見知らぬ暮らしの一齣を (tabitsuzuri.com)

当時日本最長だった第一トンネルの掘削の具体的な工事内容や田辺朔郎の凄さ、そして動画ではご紹介できなかった琵琶湖疏水の成功を信じ断行した京都府知事の北垣国道や非常に精密な測量で疏水事業に貢献した島田道生の二人の人物についても知ることができました。

竪坑の難しさや資金繰りの苦労、住民との折衷、落盤事故の恐怖、そしてこの大事業を完成させようとした多くの人たちの苦労と意思の強さ知ることができ、蹴上インクラインに行く前に読んでおけばよかった思いました。

蹴上インクラインや南禅寺水路閣に行く予定のある方は、図書館で借りれるようでしたら、是非事前に一読してみてはいかがでしょうか。きっと旅や散策がより充実すると思います。

それと、琵琶湖疏水の水路は12月~3月の冬季は点検や補修・清掃のため停水して水が流れていない期間があるようなので、事前に京都上下水道局のHPで確認されるのがよろしいかと思います。

それでは今回の記事はここまでとなります。ご覧いただきありがとうございました。YouTubeでも紹介しているので、是非ご覧ください。

参考サイトと参考文献

琵琶湖疏水を知るには、京都上下水道局のHPと日本遺産のHPがおすすめです。簡潔に分かりやすく説明していて、調べるのにためになりました。

参考文献は『京都インクライン物語』が上記のサイトよりも詳しく書かれていてお勧めです。

また図書館にある京都府の歴史の本に目を通すのもお勧めです。図鑑のような分厚い本(下の写真のような)だと尚よろしいかと思います。琵琶湖疏水は京都の近代の歴史に絶対に欠かせない事柄なので、京都府の歴史を扱った本にも琵琶湖疏水は書かれています。

以下、この記事で参考にした本です。

・『俯瞰CG・イラストでよくわかる日本の古寺』

一つの寺院の説明が見開き1ページだけですがその分、簡潔にまとめられています。境内図もあるので参拝の予習におすすめです。

・『知っておきたいお寺の基本』

非常に易しくお寺の基本を解説しています。入門者用で詳しく知りたい人には物足りないです。

・『日本の歴史21 近代国家の出発』

日本史の名著で知られる中公文庫日本の歴史シリーズの明治時代を扱った本です。出版が1974年と古いので内容に注意が必要ですが、いろいろなことを知れます。

・『経済で読み解く日本史 明治時代』

とにかく読みやすくて分かり易い上念司氏の日本史シリーズの明治編です。引用と参考文献を明治しているのも助かります。

・『近江から日本史を読み直す』

古代~近代まで近江で起きた事柄を紹介していて、日本史や近江の地理を知ることができます。比叡山をはじめ、近江が日本史に重要だった舞台であることが分かる一冊です。

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