【新潟県】佐渡金銀山③日本の近世・近代を支えた鉱山の歴史(日本一周補完の旅14日目)

新潟県
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この記事では金の発見により栄えた佐渡島の歴史と、佐渡の渡った人たちについて書いています。

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金発見により栄えた相川、一攫千金を夢見て佐渡の渡る者、島送りにされた無宿人

新潟港からフェリーに2時間半乗り、佐渡の両津港に向かいます。
江戸時代は何時間かかったのでしょうか。

元々相川には浜辺に僅か数戸の百姓の家がある程度で、自給自足をする寒村でしたが、金が見つかり幕府の直轄地となると、佐渡は10年のうちに5万人の人口となり一大消費地となりました。

相川は鉱山発見後わずか20~30年で急激な発展をとげ、諸国から浪人・山師・商人・労働者が往来して、慶安年間、1684年~52年頃にはそれぞれの町が作られ、一大鉱山都市に成長しました。

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各地から来た人々により、京町や米屋町などの商人町、また板町・炭屋町・材木町など資材を扱う商人町、味噌屋町・八百屋町・米屋町などの町人町、山師(鉱山技師)にちなんだ町、大工町・水金町(みずかねまち)などの職人町、寺院の密集する寺町ができました。

諸国からきた山師(鉱山技師)・買石(精錬業者)は鉱山の近くに町をつくり、町人らは海岸近く(奉行所周辺)に町をつくりました。
※出典:『《新版県史》15.新潟県の歴史』山川出版社(2009年)
    『図説新潟県の歴史 図説日本の歴史 (15) 』河出書房新社(1998年)

また『佐渡金山』(磯部欣三著)によると、奈良町、江戸町、大坂町、京町の名から推測されるように、その地方から商人が渡ってきました。後述しますが人口増加により商品の流通が増え、大坂・京都・堺・近江などの商業先進地から渡ってきた商人が商品流通を担いました。

海岸から大地に沿って町がつくられた

後述しますが、労働者や職人は北陸出身者が多かったようです。

諸国から人がたくさん来ることによって文化の面でも、建築・絵画・学問・芸能のなどが発達しました。

中には一攫千金を夢見て海を渡り佐渡に向かった者も、犯罪を犯して鉱山に身を隠した者も、遊女として海を渡った者もいました。

そうした人とは別に、無宿人と呼ばれる者たちも船に乗りこの海を渡り佐渡に行きました。
無宿人とは、町人から勘当された者や農村から追い出された者などの、戸籍台帳から名前を消された浮浪人です。
江戸時代、増加した無宿人への治安対策の一つとして、直轄地の江戸、大坂、長崎などから1800人余りの住所不定の人たちが佐渡へ送られ、水替という重労働をしました。

水替は排水の器具の届かない狭い場所を人力でひたすら水を掻き出した

佐渡の金山この世の地獄と歌われたように、送られた無宿人にとって、佐渡は絶望の地でした。

佐渡は鉱山が採掘されるまでは島流しの流刑地でした。政治などの権力闘争に敗れた人らが佐渡に島流しにされましたが、地位の低くない彼らは労働を課せられることはありませんでした。
一方で、佐渡に島送りとなった江戸時代の無宿人らは、必ずしも罪を犯した罪人とは限りませんでしたが、刑罰として佐渡に送られ、厳しい労働を課せられました。
これは佐渡に行くまでの、宿場町をはじめとした道中の住民への見せしめの性格が強かったといいます。

佐渡金銀山により潤った北陸

さて両津港に着き、バスに1時間乗り、島の反対側の相川へ向かいます。

佐渡が一大消費地となったことで、北陸一円の経済も大きく変わりました。
出羽・越中・津軽からは米が、越後の山村からは木材や炭が、越後の海岸からは塩焼きや四十物(あいもの)が運ばれました。
四十物(あいもの)とは鮮魚と干魚の間の保存用の塩魚で、肉体労働者の重要なたんぱく源とされました。

その他にも鉄・油・鉛・塩、家用の材木、生活のための薪・蝋燭・菓子・衣類と、様々な物が佐渡に運ばれ、佐渡の鉱山開発により北陸一円の経済が潤いました。

労働者が増えれば遊女町も栄え、元和の頃には30軒余りの遊女屋ができ、それぞれに30~40人、1,200人もの遊女がいたといいます。
※元和年間(1615年~1624年)

相川郷土博物館では武士と駆け落ちした遊女の墓の写真がある。島内の寺には遊女の墓があるが、心中した遊女の死体は晒されたという

佐渡の鉱山開発により北陸一円の経済が豊かになりましたが、同時に一攫千金を夢見て佐渡に渡る者も少なくありませんでした。
加賀や越後などの農山漁村では、安易に佐渡に行く者が増えたことで農業や漁業に支障が出て年貢を納められなくなり、藩から佐渡には渡ることを禁止する命令が出されました。

北陸出身の労働人や職人、佐渡奉行所跡

さて、相川のバス停で降り佐渡鉱山跡に向かいます。
坂を上ると途中に今でいう刑務所・処刑場の跡があります。

江戸時代初期、代官の大久保長安が相川に港をつくり、台地に広大な陣屋をつくらせ、台地と港の間の道に町人を呼び寄せて町をつくりました。

先ほど佐渡には諸国から浪人が来たと言いましたが、彼らは戦国時代に没落した大名の家臣でした。よく知られいるのが武田家の金山で働いていた甲州の浪人で、その他に越後、石州、武州、大和の浪人が佐渡に渡りました。
※石州:現在の島根県の西部、武州:武蔵国。現在の東京都・埼玉県・神奈川県の一部。

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磯部欣三『佐渡金山』中公文庫(1992年)p33によると、労働者や職人は北陸出身の人が多かったとあります。これは一向一揆で信長や家康から家を追われた浄土真宗の門徒たちが集団で渡ったからです。越前・越中・加賀・能登などから渡海した信徒たちが桶屋や革屋などの職人をし、また大工や鍛冶屋などの鉱山関係の仕事をしたことが、真宗寺院の過去帳から拾い出されるようです。

職人や単純労働者は真宗や浄土宗が多いですが、商人は日蓮宗が多く(京都の町人の支持を得ていた)、武士は浄土宗や禅宗が多い傾向がありましたが、真言宗や天台宗、時宗の寺院もあり、寺院の密度は京都をもしのいだらしく、「大きな宗教市場でもあった」と『佐渡金山』に書かれていました。一番多かった寺院は真宗でした。

途中、佐渡奉行所跡があります。
1603(慶長8)年に大久保長安によって建設され、佐渡の鉱山経営と行政の中心だった場所です。
佐渡奉行所には、金銀山の管理と行政を行う役所、金や銀を選鉱する工場の勝場(せりば)、奉行の住まいの御陣屋がありました。

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佐渡奉行所とその周辺で町づくりが再編されたのは、18世紀でした。
石谷清昌(いしがやきよまさ) の奉行在職中(1756年~1759年)のことです。

それまで町のあちこちで仕事をしていた精錬業者を奉行所内に集めて寄勝場(よせせりば)をつくり、作業の効率を良くしました。また、年貢の免除や産業の育成、奉行所の組織などについての意見書を幕府に提出して大改革を行いました。

最初は鉱山に近い坂の上に人々が集まって町ができましたが、人口が増えたため海に面した台地の先端に佐渡奉行所がつくられ、ここを中心に職業別の町が計画的につくられました。

島内での生産増加、新田開発

人口が急激に増え一大消費地となり、各地から米や木材・衣類など人々の生活に必要な物資が運び込まれた佐渡ですが、一方で、佐渡島内でも鉱山向けの品物の生産が盛んになりました。
また、坑道を掘るための技術や測量技術などが農業に利用され、島内各地の海岸(かいがん)段丘や中山間地で新田開発が進みました。

鉱山で排水のために大量の桶が使われたことで、島内で桶作りが盛んになり、その技術が向上しました。その結果できたのが、佐渡観光の定番でも知られているたらい舟です。たらい舟ができたのは明治初期ですが、桶作りの技術が向上したことで丈夫で大きな桶を作れるようになり、漁の舟として利用されました。

また鉱山の排水で活躍したアルキメデスポンプという、ネジ巻きの原理で水を汲み上げるポンプも金銀の生産が低下した際に百姓に払い下げられ、灌漑に使われました。

相川郷土博物館にあったアルキメデスポンプ(水上輪)

たらい舟もアルキメデスポンプも後述します。

相川鉱山に向かう途中には、佐渡の金山のシンボルとなっている道遊の割戸が見えます。江戸時代に金を求めて山のてっぺんから掘り進めたら山を真っ二つにしてしまった跡です。

坂の途中に無宿人の供養塔がありましたが、時間がなく寄れませんでした。

近くには無宿人小屋跡があります。

近くには無宿人の墓もある

無宿人らは町から離れた鉱山の近くに住まわされ、監視されました。
町に出て自由に過ごせる日は1年に1回のみで、ろくに休日もなく長時間重労働を課せられた無宿人の寿命は短く、墓地には20代、30代の年齢が刻まれているといいます。
無宿人らは各所にある穴から抜け出し、浜辺の船を盗んで逃亡を試みようとし、脱走する者が後を絶ちませんでした。

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