佐渡金銀山は近代まで日本最大の金山で、江戸時代より約400年間にわたり採掘され、大量かつ高品質の金を生産し江戸幕府の財政を潤し、明治時代は近代化の原動力となり国の財政を支えました。
※その量、金78t、銀2,330tにおよぶ
手作業での採掘にもかかわらず、最盛期の江戸時代前期は量・質の両面において世界最大級・最高品質の金生産を誇りました。
この生産性の高さと遺構の保存状態の良さは世界遺産に値するとされ、2023年12月現在、世界遺産に推薦されその登録が期待されています。
※2024年の世界遺産登録を目指している
今回は佐渡金銀山の歴史や見どころを旅の写真とともに紹介します。
観光地としての佐渡金銀山は佐渡金銀山①で書いています。
アクセスなどの基本情報を知りたい方はそちらをご覧ください。
旅をしたのは2022年4月上旬です。
この記事では佐渡の概略と世界遺産に相応しい理由を書きます。佐渡の詳しい歴史や景観は次の記事になります。
概略
佐渡金銀山は佐渡にある幾つもの金銀山の総称で、その中でも相川金銀山が特に規模が大きく観光の拠点となっています。
今回はこの相川金銀山を散策します。
※他にも西三川金山や鶴子銀山も知られている
相川金銀山は江戸時代の慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いの翌年、徳川家康の所領となり、大久保長安により採掘が行われます。
相川で採れた金銀は江戸時代、小判の原料となり、また金は城や社寺の門や襖絵などの装飾にも使われ、銀は生糸を輸入するための資金にもなりました。
17世紀後半になると、鉱石の採掘場所が次第に地下深くなり、坑道内の湧き水に悩まされ生産量が減りますが、荻原重秀(おぎわら しげひで)が坑内に溜まった湧き水を海に流す疎水道を掘削し、金銀の生産が再び増加しました。
明治時代は外国人技術者の指導のもと、鉱山の近代化が始まり、
採掘、運搬、精錬などに西洋技術が導入され、金銀生産の効率が上がり、さらに発展しました。
明治29年(1896年)に三菱へ払い下げられてからは三菱の経営する鉱山として発展し、平成元年(1989年)に閉山し、現在は観光地となっています。
世界遺産に相応しい理由
佐渡金銀山が世界遺産に相応しい理由は、文化庁によると、
金に関する鉱山で
19世紀半ばまで伝統的手工業のみによる採掘が行われ
鉱山地区に加え生産組織を伝える集落地区も残っているものとして、
世界で唯一の鉱山遺跡である
とのことです。
※出典:文化庁HP 世界文化遺産に推薦中の文化遺産 佐渡島の金山 資産概要PDFより
つまり、手作業で大量かつ高品質な金を生産した歴史と、その鉱山地区と集落地区が良好な状態で保全されているのが佐渡金銀山の特徴です。
15、16世紀の大航海時代以降、世界では鉱山の機械化が進みましたが、佐渡では手作業で採掘されました。それにもかかわらず江戸時代前期の全盛期には、世界最大級・最高品質の金を生産しました。
高い掘削・測量技術や精錬技術が機械化鉱山を上回る純度と世界最大級の生産体制を可能にし、
その背景には徳川幕府による長期的・戦略的な鉱山経営がありました。
佐渡には幾つかの鉱山がありましたが、異なる鉱山の特性に応じて、各生産技術に適した生産組織を管理・運営しました。
坑道や排水路などの生産技術及び
鉱山集落や奉行所跡などの生産体制の双方の詳細を示す遺構が現在でも良好な状態で保全されている点でも世界に類を見ない
とのことで、世界遺産に推薦されています。
まとめると、佐渡金山が世界遺産になり得る理由は、
<生産技術>
①機械化鉱山を上回る純度と世界最大級の生産量
②高い掘削・測量技術や精錬技術
<生産体制>
①徳川幕府による長期的・戦略的な鉱山経営
②民衆に育まれた鉱山由来の文化特徴
文化庁HP 世界文化遺産に推薦中の文化遺産 佐渡島の金山 資産概要PDFより抜粋
採掘から小判製造までが同じ場所で行われていた鉱山は国内でも佐渡だけのようです。
※その工程を鮮やかに描いた鉱山絵巻が100点以上も残っています。
出典:佐渡市HP 佐渡金銀山>佐渡を世界遺産に
ちなみに、世界遺産登録を目指しているのは江戸時代の遺構のみです。相川では明治時代以降の近代の鉱山の遺構も残っていますが、そちらは世界遺産に推薦されていません。
YouTubeで紹介できなかった内容です。
文化庁の説明する佐渡金銀山が世界遺産になり得る理由をもう少し詳しく紹介します。
徳川幕府は、日本各地から佐渡島に鉱山の専門技術者を集め、当時の最先端の伝統的な技術を結集し、採鉱から選鉱、製錬・精錬、小判鋳造に至る一連の工程を全て行いました。
これにより機械化鉱山を上回る純度と世界最大級の生産量を誇り、99.54%まで金の純度を高め、当時世界で行われていた、西洋の機械や化学薬品を用いたものよりも純度の高い金をつくっていました。佐渡島は世界屈指の金生産地として、その名を世界に広めました。
※佐渡島の表記ですが、佐渡島と書いてさどと読むのが通例になっていますが、さどがしまと呼ぶべきとの声も挙がっています。
17世紀前半、日本は世界の金の約2割を流通させ、そのほぼ半分が佐渡島で生産された金です。
世界でも流通していた佐渡島の金は国際的にもその認知度が高かったようです。
それほどの金を生産できたのは、生産技術が高かったからです。
具体的に、掘削・測量技術や精錬技術が優れていました。精錬技術では、西三川砂金山では、人為的に貯めた水の力で洗い流して砂金を採取する「大流し」が導入されていました。
相川鶴子金銀山では、排水や換気などの課題を解決する掘削・測量技術や、効率的に鉱石を処理する選鉱・製錬・精錬技術が深化していました。
その一つの例に換気の面での通気坑道が挙げられます。本坑道に並行して通気坑道を設けて空気を循環させる並行坑道が作られました。
残念ながら相川金銀山では見れませんでした。
測量では、922メートルの坑道全体を三分割し、6カ所から同時に掘り進め、各合流地点の誤差は1メートル余りでほぼ食い違うことなく貫通したそうです。
こちらは金山展示資料館で図面と解説を見ることができます。
こうした生産技術の高さがあったので、高品質で大量の金を産出できましたが、他に、優れた生産体制という要因もあります。
徳川幕府による長期的・戦略的な管理運営と集落形成がそれです。
徳川幕府は、佐渡島を直轄領とし佐渡奉行所を設置しました。佐渡奉行所では、2つの異なるタイプの鉱床における生産組織を束ね大規模な生産体制が構築され、長期的・戦略的な鉱山経営が行われました。
上記の西三川金山と相川鶴子金銀山の二つのパターンです。
また生産体制では、日本各地から佐渡島に鉱山の専門技術者が多数集まったことにより、様々な信仰、芸能、祭礼などの民族文化が花開いたことも特徴的です。
相川金銀山の宗大夫坑の出口付近で観れる、金銀の鉱脈が見つかった時の祝い
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