【新潟県】佐渡金銀山④相川金山の坑道見学 江戸時代コース(日本一周補完の旅14日目)

新潟県

この記事では江戸時代の手掘りの坑道と当時の時代背景を書いています。

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宗太夫坑(江戸金山絵巻コース)

相川のバス停から歩くこと約30分、鉱山の入口にやって来ました。

江戸時代の坑道の宗太夫坑と明治時代以降の坑道の道遊坑の二つを見学できます。
共通券で両方歩いてみます。

右が江戸時代、左が明治時代の坑道

江戸時代の坑道は手掘りです。
入口付近には説明板が幾つかあり、解説が充実しています。
金銀を求めて地下深くまで堀り、海面よりも下に掘り進みました。

こちらではに、江戸時代の「佐渡金銀山絵巻」に描かれている採掘作業が忠実に再現されています。

短命だった金穿大工

金穿大工(かなほりだいく)が鏨(たがね)と槌(つち)で鉱石を掘る様子です。

金穿大工は技術者として賃金もよく優遇され、4時間ごとの交替制で食事や休息時間もあり筵の上で横になることもできました。
しかし坑内での作業で肺をやられ短命でした。
※鉱山の雑用をする日雇い賃金が28文に対し、金銀を掘る大工は400文も500文も稼いだという

粉塵と油の煙を吸い込み「山よろけ」や「山よわり」と呼ばれる珪肺病にかかり、
多くが3年、5年のうちに肉が落ちしきりに咳をし、煤(すす)のようなものを吐いて亡くなったといいます。
※石英の粉塵、珪酸(けいさん)を吸い込み肺の機能が失われる

30歳を超える者は稀で、そのため賃金はあるだけ使い潰し、酒女はもちろん、美食、美服を第一の自慢としている、と読んだ本に書かれていました。
※出典:磯部欣三『佐渡金山

YouTubeで紹介できなかった内容です。
佐渡の鉱山のことは江戸時代に佐渡奉行だった川路聖謨(かわじ としあきら)が記した『島根のすさみ』に記されています。
川路聖謨は幕末で活躍した人物(以下参照)ですが、佐渡奉行の時に幕府の奉行として初めて坑内の中に入り、労働者の悲惨な状況を見聞し記した人物として知られています。

川路聖謨
1853年プチャーチンが長崎に来ると対応し、翌年には下田で日露和親条約を結ぶ。
安政の大獄で老中阿部正弘や堀田正睦に連なる開明派幕吏の一人とみなされ、左遷され退隠を余儀なくされる。
文久年間に短期間外国奉行を務めたがすぐ辞職隠居、中風で半身不随となり、戊辰3月、江戸開城のうわさを聞いてピストルで自殺する 。

それによると、要約だが、
坑内で金銀を掘っているものを見せてもらったが、彼らは陽の目を見ないので色は青く、石の粉が前進にふりかかり、その上、灯油の煙をかむって、なかなかこの世の人とは思えない。
これが三十歳くらいで死ぬ連中であるが、祝いの歌をうたいながら掘っているさまは勇ましい。
と記しています(『佐渡金山』より)。

金銀を掘る大工はただでさえ悪条件で働くのに、山の外に出ると朝夕を酒と色で身を沈めて身体を弱らせるため短命でした。
漁師や農民が冬の農閑期に鉱山に入ることがありましたが、彼らは滞在時間が限られているのもありますが、妻子のあるものは生活が慎重であるので長生きする者が少なくなかったようです。

坑内で使われた灯りは魚油でこれが菜種油に比べなおさら健康を害したようです。

佐渡金山資料館の模型
佐渡金山資料館の模型

排水に活躍した島民が担った樋引人足

ポンプを使って排水する樋引人足(といびきにんそく)の様子です。

鉱山は水との闘いで排水は重要でした。
海面下深くまで掘り進めたため湧水が常に溢れ、また大雨や洪水で地上から水が流れ込んだため、日夜排水に追われました。

排水に使われた水上輪(すいじょうりん)はネジの原理で水を汲み上げるアルキメデスポンプで、承応2年(1653年)に佐渡にもたらされたと書かれていますが、これは当時最新の技術でした。

後に鉱山が不振になると農民に払い下げられ、灌漑に使われ、農業でも大活躍しました。
水上輪は相川郷土博物館で観ることができました。
※2023年12月現在は改修中

佐渡金山資料館の模型

樋引人足(といびきにんそく)は
高賃金を稼げたので近隣から農家の次男・三男が稼ぎに来た、
江戸後期には無宿人も使われたがその数は意外に少ない、
と書かれています。

山留大工、検問所、唐箕

山留大工(やまどめだいく)が坑内の支柱を組み立て坑道を確保する様子です。

奉行所が直接雇っていた技術者とあり、先述の没落した大名家から再雇用された浪人たちの一部がこのような仕事に就いたと思われます。
佐渡金山の岩盤は硬く落盤の可能性は非常に少なかったようです。

こちらは検問所の様子です。

鉱石や物資の不正持ち出しを防止するとともに運搬人である穿子(ほりこ)の出入りを記録し賃金支払いの目安としました。
穿子(ほりこ)は外から坑内に留木(とめぎ)や油、鏨(たがね)などを運び、鉱石などを坑内から外に運びました。

唐箕で風を送る様子です。

酸欠を防ぐため、また灯りの油や煙、採掘の粉塵が立ちこめた坑内に新鮮な空気を送るのは、命を繋ぐ重要なものでした。

佐渡金山資料館の模型

間切り改めについても

佐渡金山資料館の模型

佐渡金銀山この世の地獄と謳われた、無宿人の水替

無宿人水替の様子です。

水上輪の届かない狭い場所では、人力による水揚げが行われました。

水替人足(みずかえにんそく)の労働時間は隔日交代の一昼夜勤務(1日中働いて翌日休む)ときつかったが、賃金はよかった。しかし常に人員不足で安永7年(1778年)より江戸・大坂・長崎などの無宿人を受け入れるようになった
と書かれています。
その数は約90年間で1874人とあります。

おそらく「佐渡の金山この世の地獄」と歌われ恐れられた作業がこの水揚げで、無宿人らは重労働と硅肺(けいはい)、気絶(けだえ)により短命でした。

水替人足は、始め島民の労働力に頼ったがその後(のち)無宿人の力を借りたと言われますが、実際は島民が税として働いたと考えられます。
90年間に送り込まれた無宿人は1874人なので1年で20人前後です。
無宿人は治安維持と見せしめを目的として佐渡に送られたのでその数は水替人足を埋めるものではなく、足りない分は島民が駆り出されたと思われます。

佐渡金山資料館の模型

出口の近くには金銀の豊富な鉱脈を見つけた時の祭りがあります。
こうした祭りにも各地の文化が混ざっているようです。

発展と衰退を繰り返した佐渡

YouTubeで紹介できなかった内容です。
佐渡の鉱山は江戸時代、常に盛況だった訳ではありませんでした。
江戸時代初期、金銀山の採掘により盛況した佐渡ですが、寛永期(1624~43年)に入るとやがて相川鉱山が衰え始めました。
寛文期には相川の人口は激減し、鉱山はもとより商売・回船業・農村に至るまで不景気に陥り、羽田の浜には餓死者が多く捨てられる有り様だったようです。

元禄3年(1690)に荻原重秀が佐渡奉行になると、江戸から莫大な資金を投じて南沢疏水道が掘られ、水没した坑道の水を排水し、鉱山の復興がなされました。
これで金銀の産額が増えましたが利益は出せず再び低迷し、享保の改革では鉱山の整理と合理化が進み、農村に対する年貢の増税も起こり、島は一層苦境にたたさました。

物価調整のために、佐渡の金銀採掘や鋳造のコストを上げないように島内で作られたものを外で売ることを禁止した、なんてことも本に書かれていました。
※出典:『《新版県史》15.新潟県の歴史』山川出版社(2009年)
    『図説新潟県の歴史 図説日本の歴史 (15)』河出書房新社(1998年)

しかし、江戸時代の中期以降の宝暦年間(1751−1764)に、生活苦の島民が一揆を起こす不安から、島外へ物の売っていいことに規制を緩和したそうです。
※ミツカン水の文化センターのHP(機関誌『水の文化』61号 水が語る佐渡より)

佐渡の産品は他の地域、特に開拓期の北海道へ運ばれました。
北海道では米が作れなかったので、ニシン漁の網、これは藁で編むものですが、に使う佐渡の縄や莚(むしろ)、草履(ぞうり)などの藁製品が飛ぶように売れたのだそうです。米や竹なども売れたようです。

佐渡金山展示資料館

江戸時代の坑道を出ると佐渡金山展示資料館があります。
こちらでは江戸時代の坑道の様子や鉱山経営についていろいろなことを知れます。

衰退した相川金銀山を復活させた南沢疏水道の展示が詳しくされていました。
荻原重秀が坑内の水を日本海に流すために、元禄4年(1691年)から5年かけて造った922mの疏水道で、工期を短縮するために、竪坑を掘って 6か所から同時に開削したものです。

当時の測量技術の高さがうかがえ、江戸時代は鎖国政策がとられていましたが、現在とほぼ同じ測量技術が西洋から伝わりそれが取り入れられていたとのことでした。
南沢疏水道は長さは箱根用水に次ぐが、掛かった労力や技術の上から見れば日本一の内容をもつ
と資料館の説明板に書かれているのが印象的でした。

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