熊川宿の鯖街道ミュージアム
前回の続き(小浜の旅の続き)です。
道の駅若狭熊川宿のバス停で降りて、熊川宿を歩いてみます。
食事処やお土産屋、資料館があります。
熊川宿は端から端まで歩いて約15分の道のりです。
鯖街道ミュージアムは無料の施設で、熊川宿を分かりやすく解説しています。
熊川宿は若狭で獲れた海産物を京都に運ぶ交易の拠点として栄えました。
鯖街道は若狭から京都へと繋がる幾つかの道の総称で、鯖街道には荷物を積み替える拠点が幾つかありましたが、ここ熊川宿が江戸時代、一番栄えました。
18世紀後半には大量の鯖が若狭から京都へ運ばれたので鯖街道といいますが、そう呼ばれるようになったのは昭和の中頃からで、元々は若狭街道といいました。
鯖街道は巡礼街道でもあり、3~8月頃までは大勢の巡礼客で賑わっていたそうです。
熊川宿散策
実際に熊川宿を歩いてみましょう。
あいにくの天気で気温も低く、人がいませんが、古い町並みは風情があります。
山に囲まれ周りにビルなどの高い建物や電柱がないので景観を楽しめます。
ベンガラ色や茶色の格子の瓦屋根の建物が続きます。
※ベンガラ:防錆・防腐の効果がある顔料で、建物の壁や木材に塗られ、また漆器や陶磁器などにも使われた
顔料は水や油に溶けない染料
水路も熊川宿の見どころの一つです。
水路を流れる水の量が豊富です。
熊川宿が賑わったのは江戸時代の頃でした。
もともとは40戸(こ)ほどの小さな寒村で、豊臣秀吉が活躍した16世紀末に、浅野長政が若狭の領主となり交通・軍事の拠点としてこの地を宿場町として整備しました。
その時に、領民に対して軍役や本年貢以外の租税を免除する諸役(しょやく)免除を行ったので、発展したと言われています。
※浅野長政:秀吉の姻戚で豊臣政権の五大老となった
江戸時代に物資を京都へ運ぶ中継地となり、小浜商人が送り出した大量の物資を熊川宿の問屋たちが馬借や背負いに取り次いで京都へ運び、鯖街道で一番賑わう宿場町となりました。
熊川宿は問屋と運送業者の多い宿場町で、最盛期には一日に千頭の牛馬が通ったといいます。
(※小浜市鯖街道ミュージアム前の説明板より)
先ほどの鯖街道ミュージアムの展示によると、小浜で水揚げされた魚は鮮度を保つため塩引きし京都の錦市場の朝市へ出荷されました。
※塩引き:内臓を取り出して塩漬けにすること
朝獲れた魚が正午頃に熊川に届けられ、鯖街道を夜通し歩き京都の出町(でまち)へ運ばれました。
鯖だけでなく鯛や鰯(イワシ)・鰈(カレイ)などの多くの海産物が馬借や背負いにより運ばれました。
背負いが担ぐ魚荷は重さが40~60kgあり、道中には標高500mを越える峠の難所が幾つかあり、時には魚荷(うおに)の盗難に遭う危険もありましたが、無事届けることができれば生活に困ることはなく、負い縄一本あれば生活できると言われました。
馬借や背負いが活躍できたのは、問屋があったからでした。
問屋では人や馬を新しく取り替える他、賃金の賃貸、人足(にんそく)・馬方の出入りなど藩をまたいで仕事をしたため豊かな経済的基盤が築かれ、熊川宿が繁栄したと、展示にありました。
残念ながら閉まっていましたが、こちらのまる志んは自家製鯖寿しの専門店で葛にこだわった専門店でもあり、葛もちや葛きり、葛まんじゅうなどを提供しています。
熊川の葛は日本三大葛の一つに数えられ、江戸時代に京都のお菓子屋に運ばれた歴史があると言われています。
※三大葛の括りは諸説あります
YouTubeでは紹介できなかった内容です。
三大葛は諸説ありますが(以下参照)、熊川葛は吉野葛と秋月葛と並んで日本三大葛のひとつとされ、江戸時代には鯖街道を通って京都の菓子店にも運ばれていたそうです。
40年前にその生産の過酷さにより、作る人が途絶えてしまい、現在は復活して販売しているようです。
三大葛は、古くからある有名な葛としては、奈良の吉野葛、福井の若狭葛、伊勢の伊勢葛、
江戸時代頃でしょうか、近世では静岡県の掛川葛、宮城県の宝達葛、福岡県の秋川葛
とされているようです。
空いていたこちらのひのきやで辛味大根おろしそばをいただきましたが、美味しかったです。
※越前そばの特徴はこちらの記事で説明しています。
【福井】おろし大根がたまらない越前そば | 四季を気ままに (shikikimama.com)
先ほど、鯖の他に鯛や鰯(イワシ)・鰈(カレイ)などの海産物が運ばれたとありましたが、旅の後で読んだ本には、他にも京料理の芋棒、これは芋と棒鱈の煮物ですが、に使う鱈の干物やにしんそばに使う鰊の干物といった、北陸や北海道で獲れた魚の干物も運ばれ、京都で調理され、食されたとありました。
※出典:今谷明『歴史の道を歩く』
若狭は海の道で他国と繋がり、他の国の海産物が若狭に陸揚げされましたが、同時に若狭では干し魚などの魚の加工も発展しました。
干し魚ではありませんが、魚の加工でよく知られているものに鯖のへしこがあります。
塩漬けにした鯖に糠をまぶして寝かした保存食です。
そして、へしこをさらに麹漬けすることにより、鯖のなれずしを作り、ハレの日のご馳走にしました。
ささ漬けも有名で、三枚におろした鯛に塩と米酢で味付けした後(のち)笹の敷いた杉樽に詰めた保存食です。
一塩かけるのがどれも特徴で、魚が新鮮なうちに塩を振ることで腐る成分が抑えられ、旨味成分が出てきます。
福井名物ささ漬け
別館では地域の食も紹介しています↓
【福井】若狭の名産 小鯛のささ漬け | 四季を気ままに (shikikimama.com)
また若狭は大陸文化の玄関口でもあり、海外から毛皮や絹織物、陶磁器、ゾウやクジャクなど、南蛮渡来のものも含めた多種多様な文化が到来し、京都へもたらされました。
それらの多彩な往来文化は若狭の街道沿いから農漁村にまで広く伝播し、独自の発展を遂げ、主に祭礼・芸能・仏教・文化にその影響が見られます。
松木(まつきの)神社は江戸時代初期の義民・松木庄左衛門(まつきのしょうざえもん)を祀った神社です。
村の代表として重い年貢の軽減を訴え、命と引き換え悲願を達成した庄左衛門の功績を称えた義民館が奥にありますが、残念ながら旅の後で知ったので立ち寄りませんでした。
こちらの曲がった道は「まがり」といい、町と町の間が矩(かね)折れになっていますが、これは城下町の造りなのだそうです。
矩とは大工で使う直角のL字型の定規です。
こちらの通りにもベンガラ色の建物が見られます。
江戸時代に賑わった熊川宿も近代になると鉄道や車の普及により衰退し、江戸時代に200戸あった家は現在は100戸ほどになっているようです。
そのため規模が小さくこじんまりとしていますが、歴史を感じられる場所です。
熊川宿の街並みは1996年に重要伝統的建造物群保存地区に指定され、
2015年には日本遺産に認定されています。
熊川宿を訪れる人はそれほど多くはないようですが、
いい場所なのでもっと知名度が上がって欲しい観光地です。
アクセスがよくないのがネックです。
バスの乗車時間は上中駅から10分で遠くなく、運賃も390円とそれほど高くはないのですが、1時間に1本しか便がなく、JRの方も電車の本数が1時間に1本しかなく、待ち時間が長く小浜や敦賀と一緒に観光しにくいのが残念です。
帰りは下新町(しもしんまち)のバス停からバスに乗り、上中駅に向かいました。
連休などの観光客の多い日は、下新町よりも道の駅若狭熊川宿で乗った方が席が空いているので、いいのかと思います。
上中駅から熊川宿に向かうバス乗り場が分かるか不安でしたが、駅を出ると分かりやすい表示があるので問題なくバスに乗れました。
上中駅から50分ほどかけて敦賀駅に向かいます。
電車はあっても1時間に1本です。
もう少しせめて1時間に2本あれば、もっと旅の予定を立てやすいのですが、利用者がいないので仕方ありません。
今回の若狭の旅は電車の本数が少なくて予定を立てるのに苦労しました。
小浜や敦賀に手頃なビジネスホテルが無く、この日は京都の福知山から旅を始めましたが、宿泊施設が少ないのも旅をしずらい理由でした。
若狭自体魅力がありますが、アクセスがよくないのが残念です。
コシヒカリ発祥の地 福井県
敦賀駅に向かう車窓からは、田んぼが見えます。
福井県はコシヒカリ発祥の地と言われる、コシヒカリが育てられた場所です。
コシヒカリの元となる交配が行われたのは新潟県ですが、その後、特徴を安定・固定するための選抜と育種が行われたのが福井県で、そのためそう言われています。
福井ではコシヒカリの他にブランド米のいちほまれや酒米の五百万石も栽培しています。
もう一つの若狭の観光名所 敦賀 昆布加工で栄えた町
敦賀駅で乗り換えて約1時間かけて福井駅に向かいます。
当初は敦賀で2時間ほど観光する予定でしたが、4月になろうかとしていた3月末は想像以上に寒かったので断念しました。
敦賀駅から15分ほど歩くと日本三大木造鳥居で知られる氣比神宮(けひじんぐう)があり、更に12分ほど歩くと赤レンガ倉庫や海が、15分ほど歩くと金崎宮(かねがさきぐう)があります。
個人的に敦賀の歴史で気になったのが、昆布の加工でした。
敦賀は江戸時代に西廻り航路が開かれるまでは、日本で最大の昆布の荷揚港(にあげこう)でした。
中世から始まった松前との航路により、江戸時代初期までは松前からの海産物が敦賀で降ろされ、陸路と琵琶湖の水運によって京都・大坂に運ばれました。
17世紀末に西回り航路ができ大阪まで航路が延長すると、海産物を敦賀で降ろす必要がなくなり荷揚港としての機能が縮小しましたが、それでも昆布は降ろされました。
加工技術が根づいていたため、おぼろ昆布など最終加工までやってから京都に運ばれたのです。
加工した昆布は軽くてかさばらないため、輸送コストも採算が採れ、明治時代の最盛期には100軒近くの昆布屋が軒を連ねたといいます。
敦賀は昆布で栄えた町で、現在も手すき職人が昆布を手で削る、昆布の加工は健在で、その辺りのことを資料館や町を歩いて感じたかったのですが、またの機会にしたいと思います。
※昆布の加工は大坂でも発展し、大坂でも盛んに行われた
そして福井駅で福井を代表するご当地の食を食べて、金沢駅に行き泊まりました。
福井の食は散策動画で紹介しているので、そちらも是非ご覧ください。
【福井】福井駅福福茶屋の竹田の油あげ定食と鯖のへしこ | 四季を気ままに (shikikimama.com)
参考文献
五味文彦『日本の歴史を旅する』岩波新書(2017年)
今谷明『歴史の道を歩く』岩波新書(1996年)
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