今回は京都の東山にある六波羅蜜寺と六道珍皇寺(ろくどう ちんのうじ)をご紹介します。この二つの寺院はかつて風葬地だった鳥辺野の入口にあり、死者の法要や埋葬に関わった寺院です。飢饉や疫病で多くの人が亡くなった平安時代や鎌倉・室町時代、京都に住む民衆にとって死を扱う二つの寺院は、非常に大切な存在だったと言えます。
今回は、そんな六波羅蜜寺と六道珍皇寺について、風葬地・鳥辺野にふれながら紹介したいと思います。鳥辺野については清水寺でも書いているので、そちらも併せてご覧ください。清水寺の観音信仰と鳥辺野は切っても切れない関係があるので、清水寺とセットで読んでいただければと思います。
空也上人が創った寺院 六波羅蜜寺
六波羅蜜寺は鴨川と清水寺の間に建つ寺院です。室町時代まで、鴨川の東はあの世や死を連想させる場所でした(詳しくは清水寺の記事を参照)。
鳥辺野の大体の範囲(『カラー版 地形と地理でわかる京都の謎』『京都はなぜいちばんなのか』を元に作成)
六波羅蜜寺は平安時代中期、天暦5年(951年)に空也上人が開いた寺院で、西国第17番の札所としても知られています。
空也上人像や平清盛座像を保管展示しています。
残念ながらこの時は空也上人像が東京国立博物館に貸し出されていたので、後日旅が終わってからトーハクに観に行きましたが、素晴らしい像でした。
死を避けなかった聖 空也上人
空也上人と言えば、民衆に南無阿弥陀仏を唱えれば救われると説き、民衆から「市聖(いちのひじり)」と慕われた人物として知られています。また空也上人によって始まったとされる踊念仏は、大衆の心を強く惹きつけ爆発的に広まり、後に踊念仏で遊行した一遍が「空也上人は我が先達なり」と言った人物としても知られています。
空也上人の魅力はそれだけではなく、醍醐天皇の第二皇子という地位を捨て(あくまで一説で確かなことは分からない)、若い頃から諸国を巡り苦行を行い「捨て聖」と呼ばれたところにもあります。
菩薩行という人のためになる行、例えば水のない荒野に井戸を掘り、川に橋を架け、険しい道を平にするといったことを行い、病人を介護し、悩める者の苦厄を取り除いたといいます。
空也上人が行った菩薩行の一つに、遺体の埋葬があります。野山・野辺に棄てられた死体があれば、一箇所に積上げ、油を注いて焼き清め、そして阿弥陀仏を唱えて霊魂を供養したといいます。
阿弥陀仏と名号を書いた紙をかけたり、卒塔婆(そとば)を立てたとされ、今でいうところのお墓を建てて死者の供養をしました。
まだ仏教が庶民の死を扱うことのなかった平安時代、死者の供養を行った空也上人の活動は注目されるべきものがあります。
空也上人の弟子たちの一部は死者を葬りお墓を建てる、後に三昧(さんまい)聖と呼ばれる者になりました。
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仏教がいつから葬式を始めるようになったかは不明だが(鎌倉時代に曹洞宗が始めたと考えられる)、平安時代は僧が葬式をすることは禁止されていました。
そのため死を扱う者は出家できず、俗人としての生活を送りながら、遺骸の火葬や埋葬、墓地の管理をしました。
六道の辻、六地蔵といわれた墓地の入口で遺族から遺骸を受け取り、火葬場や風葬地に運んだといいます。
『日本の名僧⑤浄土の聖者 空也』によると、当時は遺族は鳥辺野に立ち入ることはなく、そこから先は三昧聖に任され供養されたいいます。風葬地は穢れが多い地であり、遺族が立ち入ることはありませんでした。ですので墓参りというものもありませんでした。
「三昧聖」の初見は鎌倉中期、叡尊の自伝『感身学正記』1269年(文永6年)に「三昧」と墓地の意味で書かれており、「三昧聖」と書かれている早い例は南北朝時代で、1365年(貞治4年)明通寺の社寺文書に書かれているようです。
※『日本の名僧⑤浄土の聖者 空也』(伊藤唯真編)より
空也上人が鳥辺野の入口となるこの地に寺院を建てたのも、死者の供養をするためだったことが分かります。
ついでに、六波羅蜜寺は正月三が日に皇服茶(おうぶくちゃ)が振舞われます(大福茶ともいわれる)。
元旦の若水で煎じた茶に梅干しと結び昆布を入れて飲み、その年の縁起を祝うお茶で、これは空也上人の弟子たちが生活や活動のために販売したものです。
その起源は空也上人が疫病が流行した時に、お茶に梅干しとみょうがを加えて人々に振るったものとされています。
皇服茶(おうぶくちゃ)についてはこちらをどうぞ↓
【小話】平安時代 空也と大福茶(おおぶくちゃ) | 見知らぬ暮らしの一齣を (tabitsuzuri.com)
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「六波羅」という言葉を聞くと、六波羅探題を思い浮かべる人も多いかと思います。鎌倉幕府によって設置された六波羅探題は、平清盛を筆頭とする平家一門の六波羅の軍事拠点を踏襲したものです。
平安後期に平清盛の祖父の平正盛が、六道珍皇寺の畑を借りて屋敷を造ったのが始まりとされています。その後、正盛の子であり清盛の父である平忠盛が、珍皇寺の塔頭に軍勢を止めるようになり、清盛・重盛に至り広大な境域内に権勢を誇る平家一門の邸館が栄えるようになりました。その数5200余りに及んだそうです。
平家滅亡後は六波羅探題が置かれ、鎌倉幕府の京都支配の拠点となりました。
本堂は寿永2年(1183)平家没落の際に兵火を受け、諸堂は焼失しましたが、本堂のみ焼失を免れ、その後も修復を経て今日まで残っています。
六波羅蜜寺のHPによると、「現本堂は貞治2年(1363)の修営であり、明治以降荒廃していたが、昭和44年(1969)開創1,000年を記念して解体修理が行われ、丹の色も鮮やかに絢爛と当時の姿をしのばせている」と書かれています。
必見の名宝を鑑賞できる令和館
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ついでに、話が反れますが、六波羅蜜寺に参拝された際は、宝物館の令和館に立ち寄るのをお勧めします(※写真は東京国立博物館で開催された時のものです)。空也上人像と平清盛座像を見ることができます。どちらも写真で見た印象と違い、何とも言えない素晴らしい表情をしています。
東京国立博物館で鑑賞した時に、とても素晴らしい像だと感銘しました。空也上人像の目はガラスがはめ込まれていますが、これがライトを受け涙を浮かべているようでした。平清盛座像は写真で見ると少し気持ちの悪い表情をしていますが、実際に目にすると微笑んでいるかのような印象を受け、こちらも言葉では表せない素晴らしい表情でした。
歴史や知識を抜きにして単純に像として見ても、名宝に思える素晴らしいものでした。
また、閻魔大王像と司命坐像・司録坐像を目にすることができます。鳥辺野の麓にある寺院らしい、あの世にいるとされる像も六波羅蜜寺には残されています。司命(しみょう)と司録(しろく)は死んだ者の罪状を読み上げ、判決文を記録する閻魔大王の書記官です。
そして、奪衣婆(だつえば)坐像というかなりインパクトのある像も見ることができます。胸元をはだけた鬼婆の像で、これは三途の川のほとりで、亡くなった人が冥界に入る前に衣を奪う鬼女です。奪った衣を懸衣翁(けんえおう)という鬼爺に渡すと、翁は衣を木に懸けて罪の重さを量るといいます。
奪衣婆は盗業を戒めるために盗人の両手の指を折るとも言われています。
そうした他の寺院では見られない像を鑑賞することができ、お勧めです。
あの世の入口 六道の辻に建つ寺院 六道珍皇寺
六波羅蜜寺の近くには六道珍皇寺という寺院があります。
入口に六道の辻と刻まれた石碑がある臨済宗建仁寺派の寺院で、創建は平安時代に遡りかつては真言宗に属していた寺院です。
案内板には、
古来からの葬送の地、鳥辺野の麓で入口付近に当たることから、冥界との境界「六道の辻」と称され、お盆に帰る精霊(しょうりょう)は必ずここを通るともされた。
「六道」とは、仏教でいいう一切の衆生(しゅじょう)が生前の業因によって赴くとされる地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六種の冥界をいう。
毎年、お盆にご先祖の精霊を迎えるため八月七日から十日の四日間は、「六道まいり」の行事が行われ大勢の参詣者が、冥途に響くという梵鐘(ぼんしょう)、迎え鐘(がね)を撞き、亡者(もうじゃ)をこの世に呼び寄せる。
と書かれています。
本堂の裏庭には小野篁が冥界に通ったとされる井戸があるようです。
閻魔堂には江戸時代に造られた小野篁立像と、小野篁作の閻魔大王座像、そして弘法大師座像が祀られています。
向かって左の案内板には小野篁の人物が紹介されていて、
嵯峨天皇に仕えた平安初期の官僚で、武芸にも秀で、参議にまでなったが、不羈(ふき)な性格で、「野狂」ともいわれ奇行が多く、
閻魔王宮の役人ともいわれ、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔庁につとめていたという奇怪な伝説がある
ことが書かれています。
※不羈(ふき):束縛されず自由なこと
右の案内板には、
都の人たちは人が亡くなると亡骸を棺に納め、鴨川を渡り、鳥辺野へ至る道筋にある六道珍皇寺にて野辺の送りの法要を営み、この地で最後のお別れの後、風葬の地である鳥辺野の麓へと運んで行かれた
と書かれています。
こちらがお迎え鐘(がね)です。
案内板には、
古来より鐘の音が遠く冥途まで響き渡り、亡者がその響きに応じてこの世に呼び寄せられると伝えられ、毎年お盆の時期になるとこの鐘を撞く参詣者が列をなし、千年もの長きを渡り、澄んだ音色を時空を超えて冥途まで響かせ、旅立たれた多くの精霊たちを迎えるている
と書かれています。
ついでですが、お迎え鐘で冥途から戻った精霊を再びあの世に送り返すのが、それから1週間後に行われる五山の送り火です。
(※出典:村井康彦『京都史跡見学』)
境内には弘法大師が作ったと伝わる石仏があり、
平安時代、飢饉や疫病の流行により鳥辺野にはいつも骸を荼毘(だび)に附す煙が絶えず、また裾野一帯には火葬にすらできない人びとの遺骸や髑髏が散在するといった、まさに寂寥(せきりょう)だけが支配する地であり、
こうした人の世の無常とはなかさの光景を憂い、弘法大師が亡者の魂魄(こんぱく)の弔(とむら)いと冥界での往生を願い、大きな石仏を一夜にして刻まれた
と書かれています。
珍皇寺の5つの案内板から、この地がかつてどのような場所だったのか、どのような信仰があったのかを知ることができます。
近くには、亡くなって埋葬された女性が赤ん坊を産んで、幽霊になり飴を買い赤ん坊を育てた話からできたであろう、幽霊子育飴のお店がありました。
六波羅蜜寺の住所は、京都市東山区轆轤町(ろくろちょう)となっています。
元々「髑髏(どくろ)町」だったのが、江戸時代に改名され、現在も鳥辺野の名残を伝えています。
清水寺へ参拝の際は、時間があったら六波羅蜜寺と六道珍皇寺に参拝したいものです。また六波羅蜜寺では正月の皇服茶が、六道珍皇寺では8月7日~10日の六道まいりにも訪れたいものです。機会があれば参拝してみてはいかがでしょうか。
これらの寺院のある東山エリアには三十三間堂や豊国神社、建仁寺、高台寺、八坂神社、知恩院、南禅寺といった見どころの多い観光地が多数あります。また清水寺の二年坂・三年坂をはじめ祇園など、景観の素晴らしい場所も多いので、是非ゆっくり歩きたいものです。
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【小話】平安時代 市聖 空也 | 見知らぬ暮らしの一齣を (tabitsuzuri.com)
【小話】平安時代 空也と葬送 | 見知らぬ暮らしの一齣を (tabitsuzuri.com)
参考文献
島田裕巳『京都はなぜいちばんなのか』
『カラー版 地形と地理でわかる京都の謎』
『日本の名僧⑤浄土の聖者 空也』(伊藤唯真編)
『古寺巡礼 京都5 六波羅蜜寺』
村井康彦『京都史跡見学』
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