【大阪】天満・天神橋エリアを散策(日本一周補完の旅2日目②)

大阪府

前回(大阪の中津と梅田を散策-日本一周補完の旅2日目①-)の続きです。

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大阪くらしの今昔館

梅田駅から20分ほど歩いて日本一長い商店街、天神橋筋商店街にやって来ました。その入口には大阪くらしの今昔館という資料館があります。6丁目商店街の入口になります。明治・大正・昭和の大阪の住まいと暮らしを、ジオラマと音声解説で説明している博物館です。

改修工事中で8階のみの展示でしたが、工事前は9階と10階も営業していたようです。9階には原寸大に復元した江戸時代の町屋があり、歩きながら当時の町並みを感じることができ、10階では上から町並みを観ることができたのだそうです。

館内のパネルは、明治初期に大阪開港にともないできた川口居留地、明治後半に一大歓楽地としてできた新世界、大正時代に大大阪の新開発地とされた長屋の住宅、昭和初期の心斎橋筋商店街や北船場、戦後の復興中に利用されたバス住宅、戦後の憧れとなった団地などがありました。

川口居留地は、慶応4年(1868)の大阪開港にともない、安治川と木津川に挟まれた場所につくられ、したが、道路には街路樹や街灯が整備されて西洋館が建ち並び、テニスコートやパンと牛乳の店などができたと解説のパネルがありました。明治維新後に大阪港が開港したことは知りませんでした。

各展示の真ん中辺りには、大正13年の大阪市のパノラマ地図があります。

日本三大祭りの一つ、天神祭り(他の2つは京都の祇園祭と東京の神田祭)

毎年7月24日、25日に行われる祭りで、大川にたくさんの船が行き来し、花火が奉納されます。調べても聞きなれない用語ばかりでよく分からないのですが、簡単に書くと、船から鉾(ほこ)を流し、鉾がたどり着いた場所が神様の休息地をされ、翌日にそこへ行って神様をお迎えするお祭りのようです。

神様をお迎えする際に華やかな船で大川を渡り、陸路を渡り、花火を打ち上げてと、賑やかに祭りが行われるようです。

一旦神社から神様を出してまた迎えるのにはどのような意味があるのでしょうか。日本の各地に伝わるお祭にも共通している、きちんとした理由があるように思えます。時間があれば調べてみたいと思います。

長屋の住宅

昭和10年(1935)頃の大大阪新開地の風景で、伝統的な和風長屋と邸宅風の長屋や洋風のモダンな長屋の町並みです。一口に長屋と言っても、江戸、明治、大正、昭和初期と時代が経つにつれて変わっていく様子が個人的には面白く感じました。

大正14年(1925)に大阪は「大大阪」として誕生し、その際に新しく市に編入された市街地は「大大阪新開地」と呼ばれ、新市域では土地区画整理事業によって宅地が開発され、そこに長屋建の貸家が建てられたとのことです。大大阪については、この後に訪れる大阪歴史博物館で説明します。

空堀通り

もともとは大坂城の堀があり、大坂冬の陣の後に埋められた土地で凸凹とした起伏のある場所のようです。明治時代から商店街ができ、現在も800mほど商店街が並んでいます。大阪大空襲を奇跡的に免れた場所で、昔ながらの長屋が残っている場所とWikipediaには書かれていました。

博物館で初めて知ったので旅の行程には入れませんでしたが、難波や道頓堀からも遠くないので、歩いて散策するのもいいのかもしれません。

訪れた時は、上の階が改修中でしたが、普段であれば9階で原寸大の江戸の町屋を歩くことができるのだそうです。

城北バス住宅

戦後、空襲で焼け出された人々の救済のために建設された仮設住宅で、廃車になった木炭バスを利用したバス住宅です。トイレや調理場、洗い場などの共用施設を円形にバスで囲み、近くに農作物を育てて戦後の復興期の生活をしたようです。家賃が安く、城北バス住宅は昭和26年(1951)まで存続したようです。

戦時中に木炭バスが走っていたことは知っていましたが、それを戦後に仮設住宅として利用したことは知らず、この展示は印象的でした。家賃が安いとはいえ、夏は暑くて大変だったようです。定かではありませんが、家賃は現在の金額にして数千円だったというネットの記事もありました。

バス住宅についても今後調べてみたいものです。大阪では毛馬にもバス住宅があり、新潟では戦後の地震の後に救済措置としてバス住宅が一時期あったようです。戦後や震災後の仮設住宅も含めて、ネットではあまり記事が見当たらないので本を探して調べてみたいと思いました。

古市中団地

昭和28年(1953)から建設が始まった城東区の古市中団地は、水洗トイレやバルコニーが備え付けられた憧れの住まいでした。40代前半の自分ですら団地と聞くと古臭さを感じますが、戦後の復興期は団地に住むことが憧れであり、団地に住むために一生懸命に働いたことを知れて、こちらの展示も印象的でした。

大阪くらしの今昔館ではこうした展示を観ることができました。知らないことがいろいろとあり、見ごたえのある資料館でした。

日本一長い商店街、天神橋筋商店街

大阪くらしの今昔館を楽しんだ後は、日本一長い商店街を歩きます。

6丁目から1丁目に向かって歩きます。商店街は地下鉄2区間分の距離にあたる2.6kmあり、その間に600軒の店が並びます。端から端まで歩くと20数分かかります。

数カ所シャッターの閉まっている所がありますが、大体お店は開いていて明るい雰囲気の商店街です。

閉店しているお店の前では他のお店が臨時で営業していて、活気があります。

紛らわしい表示のお店。滅茶苦茶安いと思ったら、小さく1個幾らと書かれていました。

昔自分が持っていた大阪のイメージは、こういう感じでした。7年前に旅をしてそんなことはないと分かりましたが、こういう表示を見ると、大阪らしさも感じます。

昼からやっている居酒屋の看板が目に留まりました。

昨晩どて焼きを食べそびれたので、中に入りました。

関東煮(かんとだき)はそれぞれ100円とこちらも安いです。

旅の後で知りましたが、大阪ではおでんを関東煮(かんとだき/かんとうだき/かんどだき)と呼ぶようです。諸説ありますが、江戸の町の屋台で流行したおでんが関西に伝わったので、関東煮と呼ばれているのだそうです。おでんと言わないのは、江戸時代は田楽味噌をおでんと呼んでいたからなのだそうです。

土手焼350円

串カツとともに新世界の名物として知られている、どて焼きですが、普通のおでんの牛すじでした。一般的には、どて焼きは牛すじ肉を味噌や味醂で時間をかけて煮込んだものをいうようで、お店によっては白味噌=西京味噌で煮込んだものもあるようです。

さて、居酒屋を後にして天神橋筋商店街の1丁目に向かいます。旅の序盤から、昼からお酒を飲むという全く緊張感のない旅ですが、商店街を歩きます。

シャッターもちらほら見受けられますが、3丁目から大阪天満宮が近い2丁目にかけて人通りが増えていきます。

この辺りは江戸時代、野菜や果物を扱う青物市がありました。江戸時代以前は石山本願寺の寺内町として栄え、江戸時代にこの地に青物市が開かれ賑わったため、現在も商店街が並んでいます。

そもそも青物市は大坂城下にあったのですが、徳川幕府から城に近い所で混み合うのはよくないとお達しがあり、現在の場所に移転させられたのだそうです。市が開かれた際に、他の土地では青物を扱わないようと独占が許され正当性を得て、大阪天満宮への参詣者で賑わい徐々に商売の規模が大きくなり、天満の青物市は繁盛したのだそうです。

そんな訳で、堂島米市場と雑喉場(ざこば)魚市場とともに大坂三大市場の一つとして、天下の台所大坂を支えてきたのでした。

江戸時代の青物といえば紀州のみかんが知られていますが、この地で行われる紀州みかんの売りさばきは天満の風物詩となったようです。重陽の節句に合わせた松茸市や栗市は提灯や松明で夜を照らしながら夜間に行われ、これもたいそう賑わったのだそうです。

天満青物市場が繁盛したのは、大川のおかげでした。大川の水運を利用して近江、山城、紀伊、和泉、河内、摂津などから、採りたての野菜・果物が早朝から年中無休で運び込まれ、市場が盛り上がったのでした。

天神橋筋商店街の2丁目の入口には、お迎え人形をモチーフにした人形が飾られています。天神祭りで御神霊をお迎えする時に船に乗せる人形なのだそうです。

2丁目に入ると、昼時に行列のできるお店も増えてきました。

下調べが間に合わず知りませんでしたが、この近くには大阪天満宮があります。京都の祇園祭、東京の神田祭とならぶ日本三大祭の天神祭(てんじんまつり)が行われる神社です。

大阪天満宮は650年に孝徳天皇によって創建された由緒ある神社で、難波長柄豊崎宮(前期難波宮)の西北を守る神として大将軍社をお祀りしたのが始まりとされています(大阪天満宮のHPより)。901年には菅原道真が大宰府に左遷させられる前に旅の安全を祈願した、その後949年に菅原道真を祀る天満宮が勧請されて大阪天満宮になりました。

上町台地の北に位置する天満は、淀川が氾濫しても水没しない地域だったそうです。由緒ある神社やお寺のある場所は、湧き水が豊富であったり、木材が豊富であったり、自然災害に強かったりと、何かしらいい土地に建てられているものですが、天満宮は水害に強い交易のいい場所に建てられたのでした。

商店街の1丁目を抜けます。1丁目は天満宮の参道のようです。

そして神橋筋商店街を抜けて、大川を渡り上町台地に向かいます。

次回(大阪城エリア散策)に続く

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