【旅50日目】日本で唯一の赤瓦の天守閣 福島県会津の名城鶴ヶ城へ

日本一周

会津若松駅から離れたネットカフェで朝を迎えます。旅50日目は鶴ヶ城に行き、東京の家に戻ります。栃木県や茨城県の旅がまだ残っていますが一旦家に帰って、家から日帰りで旅をすることにします。今回は鶴ヶ城と福島県立博物館を紹介します。

それでは本日の行程です。

スポンサーリンク

50日目の行程

9:00鶴ヶ城

10:00福島県立博物館

13:26会津若松駅発
20:17新宿駅着

7時半にネットカフェを退店して鶴ヶ城に向かいます。一旦会津若松駅まで30分歩き、駅から更に40分ほど歩いて鶴ヶ城に行きます。

8時に会津若松駅に到着です。駅のコインロッカーに荷物を預けます。

鶴ヶ城に向かいます。

道幅の広い真っ直ぐに伸びる道を歩きます。田舎にはこういう道が多いです。

シャッター街。今日は土曜日ですが、帰りに通った時もほとんどのお店が閉まっていました。地方の現状を目の当たりにします。

駅から40分ほど歩き、鶴ヶ城に到着です。

鶴ヶ城

鶴ヶ城
戊辰の戦争の時は新政府軍の猛攻の前に一ヵ月籠城し、城が落ちなかったことから難攻不落の名城として知られています。2011年の大改修では、黒瓦だった天守閣の屋根を明治に解体される以前の赤瓦に復元しおり、日本で唯一の赤瓦をまとった天守閣としても知られています。

週末なので観光客用に地元で採れた野菜やお土産を売る準備をしています。

天守の中に入ってみましょう。

入館料510円払って中に入ります。入ってすぐ塩蔵が見れます。海をもたない会津にとっては、塩は貴重なものです。天守台の内部は米や塩を保管する貯蔵庫だったことは知られていますが、こういう風に見て分かる展示をしているのは、初めてです。

乾燥したタニシを備蓄していたと書かれています。江戸時代はタニシは食用だったみたいです。今でも山梨では味噌汁に入れたり酒蒸しにしたりしてタニシを食べているようです。

7階(5層の最上階)の天守からは外が見渡せます。

7階の天守閣までに各階にパネルがありますが、撮影禁止です。会津を統治した代々の大名や、鶴ヶ城の特徴、幕末の戦争など、時代を追ってこの地のことを紹介しています。

これまで見てきたお城にはなかったものとして、金箔瓦の解説がありました。鶴ヶ城の瓦は金箔だったそうですが、瓦に金を塗るのは信長が初めたものと説明されています。

信長の時は身内だけが使用を許可され(蒲生氏郷は信長の娘をもらっているので一門です)、秀吉の代になると彼が許可した大名は瓦を金で塗ることが許されたそうです。金箔瓦のお城の北限が蒲生氏郷が転入した鶴ヶ城だったそうです。

蒲生氏郷が黒川城を難攻不落の7層の天守閣のあるお城に改修したのですが、安土城を参考にしているとのことで、安土城の解説もありました。天守閣にはもともと移住スペースはなかったのですが、信長が初めて住むための生活のスペースを設けた、なんてことも説明されていました。

会津を収めた蘆名氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、松平家の家紋の入った幟が立ててあります。

天守閣から見下ろす赤瓦もいいですね

奥のは干飯櫓という食糧庫です。

長い回廊の内部は武具が備えられています。

赤瓦ですが、当初は蒲生氏郷によって関西の黒い瓦が使われていました。瓦の最先端だった関西の物を使っていたのですが、積雪が多く気温の低い会津の地では瓦が割れてしましました。瓦に染み込んだ水分が凍結してひび割れが起こるのです。そのため改良を迫られることになり、1643年の保坂正之の時代に、鉄分が多く含まれた釉薬を瓦にかけることで瓦が割れるのを防げるようになりました。焼き上がりが赤っぽくなるため、赤瓦といわれたそうです。

天守閣に横には茶室があります。

天守閣の入館券を持っている人は無料で見学できます。

この庭では、茶室に入るまでの一連の流れが解説されています。茶室に入る前に手や口を洗うだけでなく、着替えをする作法があったようです。

この茶室は利休の子・少庵が建てたといわれています。

蒲生氏郷は利休七哲に数えられる茶人としても知られています。

鶴ヶ城を観た後、10時頃に近くにある福島県立博物館に入ってみます。

福島県立博物館

先史から戦後までの福島県の歴史を紹介している博物館で、確か入場料は400円でした。撮影可です。

懸仏(かけぼとけ)

長野県を旅した時に善光寺の資料館で初めて懸仏を知りましたが、写真に収めることができました。神仏習合により、神道で使われていた鏡に仏様が描かれるようになり、時代が経つにつれ鏡が縁になり壁にかけられるようになったものです。

獅子舞

解説によると、獅子舞は大きく伎楽・舞楽系と風流系の二つに分けられます。前者は神楽の獅子舞のようなもので、中に複数の人が入って舞うもので、後者は一人ずつ獅子頭を被って踊るものです。後者の方は僅かな例外を除いて東日本にだけ分布するもので、早くても1600年前後あたりから広まったとされています。福島県内では三人で踊る三匹獅子と呼ばれるものが多く舞われているようです。

獅子舞はその土地によって使っている素材や形が違います。鶏の羽で獅子の髪を作っているものを見たことがありますが、かなり独特でした。獅子舞は調べてみると面白そうです。

木炭バス

炭鉱のあった福島では戦時中に木炭を使ったバスが走っており、これは世界でも例のないことだったそうです。戦時中の生活についてもまだまだ知らないことが沢山あるのでしょう。これを機に本を読んでみたいと思いました。

会津には鉱山が数多くあり、金銀その他の鉱物が多く産出された歴史があり、それを解説しています。

鉄作りや炭鉱の説明が他の博物館よりも詳しく説明してあります。

常磐炭鉱という、茨城県北部から福島県南部にかけての海岸線に面する丘陵地帯にある炭鉱が紹介されています。明治初期の1870年代から、首都圏に最も近い炭鉱として発展し、近代の日本の産業を支えた炭鉱です。

明治から昭和にかけて、坑内で過酷な労働が行われていたことが分かる展示です。65℃の高温の湯が出る中、帽子とふんどしと脚絆(ゲートル)だけで石炭を掘ったことや、重機やダイナマイトでの採掘が行われる前はツルハシで石炭を掘っていたことが書かれています。硫黄分を多く含み、水や温泉が湧き出る、高い掘削技術を要する炭鉱だったようです。

当時の道具と共に、炭鉱で暮らす人の生活の説明も読むことができます。

福島県立博物館もなかなか見応えのある博物館です。どこにでもあるようなことを展示している訳ではなく、ここでしか知れないことが展示されているので楽しめます。

別館か企画展だったと思いますが、漆器も展示されていました。

会津漆器といえば東北を代表する伝統工芸ですが、津軽塗や輪島塗よりも早くから盛んになった歴史があるようです。

鶴ヶ城と博物館を楽しんだ後は駅に戻ります。時間があったので歩いて帰りましたが、周遊バスが回っています。

駅への道中、漆器店があり寄ってみますが、勉強不足でよく分かりませんでした。会津の漆器、会津塗りは漆器の三大産地としても知られています。蒲生氏郷が会津に入封した際、それまでの領地であった滋賀の日野町から木地師と塗師を迎え入れ、漆器作りの最先端の技術を会津に広めました。大名の移封や転封でその土地の産業が発展したということは興味深いものです。同じように氏郷の移封によって生産された会津本郷焼と併せて、興味があったのでお土産屋で何か知れないかと思いましたが、この時は知ることができませんでした。会津本郷焼も置いてある店がほとんどなく、今では馴染みのないものになっているのでしょう。

駅に戻る途中、蒲生氏郷のお墓に立ち寄ります。

蒲生氏郷の墓

戦国時代のエピソードは大半が創作でどこまでが本当かは分かりませんが、蒲生氏郷は信長に才覚を認められ秀吉に恐れられた武将として知られています。文武両道で将来有望でしたが、会津に移封させられ、40歳という短い命で関ケ原を迎えずに亡くなります。死因は病気ですが、伊達政宗に毒殺されたなんて説もあります。

戦場で先頭に立って敵軍に突っ込む勇猛さがあり、規律を守らない部下を容赦なく手討ちにする厳格さがあった反面、自分の屋敷で会議を開いた後に、部下のために自ら風呂を沸かしたり食事を用意して当時最高とされていたおもてなしをしたという逸話も残っています。

12時半頃に会津若松駅に戻り、電車が来るまでお蕎麦をいただきます。

改札の近くにある一會庵というお店に入ります。郷土料理のお店です。

席から職人さんがそばを打つのを見ることができます。

鴨そばは香りが良くあまり油っこくなく、美味しい一品でした。

食事の後は約7時間かけて新宿に帰ります。13:26の電車で会津若松駅を出発し、郡山駅、黒磯駅、赤羽駅と乗り換えて、20:17に新宿駅到着です。約2週間ぶりの東京です。

これにてJRで日本を周る旅の第三弾、東北、北海道の旅はほぼ終わりです。まだ訪れていない栃木県や茨城県には数日後に東京の家から日帰りで行くつもりです。世間では9月19日(土)~23日(水)の5日間はシルバーウイークなので、観光地は混雑が予想されます。家で時間を気にせず旅先をじっくり決めて、足を運ぶ予定です。

21時過ぎに、東京の家に無事着き、今日の行程は終了です。

コメント

タイトルとURLをコピーしました