【旅27日目】長崎県平和記念公園と長崎歴史博物館、出島へ

日本一周

長崎の歓楽街思案橋の近くにあるネットカフェで朝を迎えます。旅27日目は1日長崎駅周辺を観光します。この記事では平和記念公園、諏訪神社、長崎歴史文化博物館、大浦天主堂、出島、西坂公園を紹介します。

それでは本日の行程です。

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27日目の行程

8:30長崎平和記念公園

10:10諏訪神社

11:00長崎歴史文化博物館

13:00大浦天主堂

14:40出島

16:00西坂公園

思案橋のネットカフェで一泊

7時半に思案橋のネットカフェを出て長崎駅に行きます。路面電車で長崎駅に向かい、長崎駅の観光案内所で市電一日乗車券を買います。今日はこの市電一日乗車券を使って、長崎駅周辺を観て回ります。北へ、東へ、南へと市電で移動し、長崎駅に戻り思案橋のネットカフェに連泊する予定です。

長崎駅のコインロッカーにリュックを預け身軽になってから、先ずは駅の北側の原爆資料館に向かいます。10分ほど電車に乗り松山町駅で降ります。

8時半前に平和記念公園に到着です。

平和記念公園

階段を上がって現れたのは平和の泉です。水を求めながら亡くなった原爆犠牲者の冥福を祈り、昭和44年(1969年)につくられたものです。奥には平和記念像が見えます。

長崎刑務所浦上支所跡

爆風で壊された刑務所の壁の一部が残されています。

職員や収容されていた者、少なくとも134人が爆死しました。

平和記念像

国内はもとより海外から集まった浄財で造られた像です。

上を指さしている右手は原爆の脅威を示し、水平に伸ばした左手は平けく安らけくと平和のすすめる姿を示しています。

平和の鐘

当時、被爆地には魚雷や戦車などを生産する多くの軍需工場があり、動員学徒、女性挺身隊と呼ばれた中学生や女学生をはじめ、多くの人々が働いていました。ここで亡くなった方々の冥福を祈るためにつくられたものです。

浦上天主堂遺壁(手前)

原子爆弾落下中心地碑

平和の母子像

男性は戦地に赴いていたので、被爆者の7割が女性や子供、老人だったといわれています。

原爆資料館

入館料200円

世界で行われた核爆弾の実験と、その被害者達のパネル

平日の朝は空いていて、ゆっくり展示品やパネルを見ることができます。

広島の資料館と比べると、感情に訴えかける資料が多いように感じます。

被害に遭われた方の証言や、『原子雲のしたで生きて』からの引用があり、いろいろと考えさせられます。

『原子雲のしたで生きて』という本は、被爆後4年目に長崎の子供たちによって書かれた作文集です。

戦争を終わらせるために原爆が使われたと言われますが、果たしてそうなのでしょうか。

広島の大和ミュージアムで1万個以上の機雷投下による海上封鎖をいう事実を知った後に考えてみると、それが事実なのか口実なのか、容易に理解できると思います。

平和公園を観た後は、長崎駅の東にある諏訪神社に向かいます。市電で20分、諏訪神社駅で降ります。

地下通路の看板。長崎は中国との関りが深かった土地だということが分かります。

10時過ぎに諏訪神社に到着です。

諏訪神社

鳥居の脇にある「迷い子知らせ石」。昔の告知板です。

諏訪神社
長崎の総氏神様として知られている神社です。江戸時代前期に社殿が造営されました。戦国時代にイエズス会の教会領になってから長崎は寺社仏閣が焼かれたり壊されたりして無くなってしまったので、禁教令が出た後に造営されたものです。

毎年10月7日~9日の3日間に長崎くんちという例大祭が行われます。演目を奉納する行事です。

長崎市内の町が7組に分かれ、毎年どこかの1組が奉納する当番制になっています。各町は7年に一度、演目を奉納するので「7年に一度の長崎くんち」といわれています。祭り自体は毎年行われています。

大門

長い階段を上がってきました。

拝殿

長崎の町が見渡せます。

御朱印をお願いしている間、屋根のあるベンチで休みます。ここは朱印代が500円と他の神社やお寺よりも高いです。旅で参拝した寺社で朱印が500円するのは、あとは長野の諏訪大社でした。

馬の像は、先ほど行った平和記念公園の平和記念像の作者が作ったものです。102歳の時の作と神社のホームページに書かれています。この時はなぜ馬なのか理解できませんでしたが、生馬の代わりに馬の像を奉納する習慣が昔はありました。別館で書いているので興味のある方はこちらを見てみてください。

月見茶屋

明治から続くお茶屋さんらしく、ぼたもちやうどんが名物のようです。

蕎麦を注文しますが、汁が美味しかったです。魚の出汁が効いていて醤油が強くなく、優しい味でした。

諏訪神社を参拝した後は、長崎歴史文化博物館に向かいます。

長崎歴史文化博物館

入館料600円だったかと。

出島の時代から明治維新までの長崎の歴史や、長崎奉行の生活を展示しています。

鎖国時代は(鎖国という言い方はこれから歴史の教科書でもいわなくなるのだそうですが)、4つの窓口が設けられていました。長崎は中国とオランダとの窓口になり、対馬は朝鮮、薩摩は琉球、松前はアイヌとの窓口になりました。琉球とアイヌは中国大陸とも交易を行っていたので、間接的には薩摩と松前は中国大陸と交易を行っていたことにもなります。反対意見もありますが、鎖国は外国との貿易を最低限に抑えるものではなく、国が独占的に貿易を行ったのがその実態だったといわれています。

日本からの輸入品や、日本への輸出品の説明も分かりやすく解説しています。例えば日本からは銅が大量に流出しましたが、銅はヨーロッパでコインや大砲の材料として使われました。

朝鮮には水牛の角を輸出しましたが、これは長崎でオランダから輸入したものです。

江戸時代の貿易は輸入過多で、それにより金銀が国外に流出しました。

長崎はオランダ貿易のイメージが強いですが、実は中国貿易のほうがオランダ貿易よりも盛んでした。長崎の文化には中国の影響を強く受けたものが今でも残されており、ペーロンや長崎くんち、ランタンフェスティバル、唐灰汁(とうあく)ちまきなどが挙げられます。

中国文化に関連して掛軸のパネルがあります。掛軸は中国からもたらされたものですが、それを専用に掛ける「床の間」は日本独自の文化なのだそうです。四季や行事に合わせて掛軸を掛け替えていくのも、日本のものらしいです。

石橋を造っている模型。日本で初めて造られた石橋が出島だったようです。当時は中国では既に多くのアーチ式の石橋が架けられていて、この技術が日本にもたらされたことがうかがえます。

瓦に桃の絵が描かれている理由が分かるパネル

長崎の工芸を紹介するエリア

工芸品の豊富さには圧巻です。

磁器ひとつとっても沢山の種類があります。

ここでは亀山焼、現川焼、波佐見焼、対州焼、青貝細工、ガラス細工、べっ甲細工、珊瑚細工などを見ることができます。

工程の解説もあり分かりやすく良心的です。

長崎遊学

錚々たるメンバーです。西洋と中国の最新情報が集まる長崎には、全国各地からたくさんの遊学者が集まりました。分野も多岐にわたり、医学、天文、地理、詩歌、書、絵画など、科学や医学だけでなく、芸術も広められました。

奉行のパネル

江戸時代の奉行といえば、激務で知られています。江戸での話になりますが、朝から晩まで非番がなく働き詰めの江戸の町奉行は、全体の2割が在職中に過労死したといわれています。そんな激務の奉行ですが、長崎ではキリシタンの探索や長崎貿易の管理も職務の一つだったことが分かります。

時代劇の影響で、蓄財に執心する奉行ばかりいたイメージがありますが、そうではなかったようです。

文化振興に尽力した奉行や飢饉の時に他藩から米をかき集めて餓死者を出さなかった奉行、熱病が蔓延したときに薬を貧民に与え治療費の半額を自費で賄った奉行のことが書かれています。

長崎歴史文化博物館は、海外との貿易だけでなく、いろいろなことを知れる見応えのある博物館でした。掛軸や桃の絵柄の鬼瓦、工芸品や奉行の職務など、面白いパネルが沢山ありました。

長崎歴史文化博物館を楽しんだ後は、大浦天主堂に向かいます。長崎駅から南の方向になります。諏訪神社前から約20分市電に乗り、大浦天主堂駅で降ります。

お土産屋の並ぶ坂道。長崎グラスのお店や陶磁器のお店など、見ていて面白いお土産屋があります。

大浦天主堂

中学生の頃に修学旅行で来て以来の再訪です。ステンドグラスが有名ですが、個人的にはさほど感動するものではありませんでした。中に入るのに600円かかり写真も撮れないのでおすすめの場所ではありません。

四海楼。長崎ちゃんぽん発祥の老舗です。

旅をしていた時は長崎の文化が中国からの影響を強く受けていたことを、それほど知りませんでした。中国の建物やお店があっても、港町にある中華街のようなものだと思っていました。カステラやビードロのような南蛮文化の方が強いイメージだったので、こういったお店をスルーしてしまいました。

一説によればオランダの商船は年に1度か2度しか来なかったのに比べ、中国からの貿易船は年に200隻も来たそうです。そういったことを知っていたら、立ち寄った場所も違ったのですが、それを知ったのは旅から数年経ってからでした。

川のすぐ横に立つ家並み。旅でしか観れないこういう景色も好きです。

予定よりも時間が余ったので、出島に行くことにします。路面電車でも行けますが、大浦天主堂駅から歩いて10分くらいの距離です。

出島

出島は「大したことない」「見所のない場所」といわれるがっかりスポットとしても知られています。期待せずに510円払って中へ入りますが、前評判が悪いだけに何だか料金が高く感じてしまいます。

出島の模型

オランダ船の船長や商館員の宿泊場所や、輸入品を収めていた蔵が再現されています。当時の居室や蔵の内部を見ることができ、一部の蔵には展示物があります。

砂糖蔵では砂糖の輸入に関する展示があります。

和菓子の発展にも大きな影響を与えた砂糖。その歴史を知ることができます。

砂糖が日本国内でどのように広まったのかや、砂糖によって花開いた文化について知ることができます。砂糖の説明が分かりやすくいいです。貿易で財をなした中国人が、日本の唐寺に寄進する際に砂糖を寄進したということも書かれていました。

砂糖は寒天と同じように日本の和菓子に革命をもたらしました。現在の和菓子の大体の形は、江戸時代に作られたものだといわれています。

樟脳(輸出品)

楠を水蒸気蒸留したもので防虫剤、防腐剤、医薬品に使われたようです。薩摩からオランダ船に輸出されています。

こちらも旅を終えてから数年後に調べて別館で記事にしているので、興味のある方は見てみてください。明治維新の原動力ともなった鎖国期の輸出品 樟脳一時期世界シェアを独占した明治から戦前までの日本の樟脳業

銅(輸出)

長崎歴史文化博物館でも展示がありましたが、銅は海外では硬貨や家庭用品、建物の装飾や武具、船底看板などに使われました。東インド会社に膨大な収益をもたらした銅は、ベンガル(インドとスリランカの国境あたり)、コロマンデル(インドの一部)、スラット(インドの一都市)、セイロン(現スリランカ)などに渡りました。

輸出磁器

江戸時代は大量の有田焼の磁器が海外に輸出されました。大陸で明から清に王朝が交替する時に、中国国内で動乱が起こり焼き物の生産が滞ったのが原因です。それまで中国から東南アジア・ヨーロッパに磁器が輸出されていたので、オランダ東インド会社が出島を通じて日本の有田で作れないか依頼してきたのが始まりのようです。

有田では最初のうちは高級な磁器が作れなかったのですが、注文が入るに従って徐々に技術が上がり、いいものができるようになりました。有田焼の輸出は1650年くらいに始まったらしいのですが、東南アジアや中東、アフリカに送られ、最終的にはヨーロッパまで輸出しました。ヨーロッパのニーズに応えて作ったようです。興味のある方はこちらもどうぞ。

しかしそんな貿易も、幕府の規制やオランダ本国の政情不安、東インド会社の経営難により衰退していきます。

評判に反して、見応えのある資料館でした。個人的には勉強になったので、いい資料館だと思います。

旧出島神学校。1878年(明治11年)に建てられた、現存する国内最古のプロテスタントの神学校です。

時間がまだまだ余っているので、出島駅から長崎駅まで10分くらい歩いて移動することにします。

車道と路面電車の線路が共有化されている道路。思わず撮ってしまいました。

長崎駅周辺で軽くご飯を食べてのんびりしますが、それでも時間を持て余してしまいます。近くに西坂公園があるので行ってみました。

西坂公園

26聖人殉教の地として知られている所です。

修学旅行で来たことがあります。

中学生の頃は当時は信仰の自由がない不自由な時代だったと教わりましが、今ではキリスト教が禁止された理由が分かります。先ほど参拝した諏訪神社もそうでしたが、キリスト教が布教された戦国時代の領国では、日本の寺社の打ち壊しが起き、先祖の墓が壊されました。キリシタン大名の大村純忠が自分の領地だった長崎をイエズス会に寄進していたことは、今ではよく知られています。

戦国時代の宣教師は領民に改宗を強制し、領地の民を奴隷として海外に輸出していたなんてことも、最近は知られるようになりいろいろな本で書かれています(イエズス会がそうであったのであって、キリスト教がすべてそうだというのではありません。また、中世や戦国時代では日本でも寺社が暴力的で戦争をしていますし、戦乱の際には人身売買が行われていたのでそういった時代性も考慮すべきですが)。その辺のことは別館で書いてみたいと思います。

西坂公園にある記念館(資料館)に500円払って入りますが、特に…と言った感じです。ただ、隠れキリシタンの弥勒像という面白いものがありました。6世紀に造られた仏像なのですが、元来仏像として拝まれていたものが17世紀以降、キリスト像として拝まれるようになり、信者に保管されていたものです。

キリストの像を日本の仏像風にして隠れて拝んでいた例はよく知られていますが、仏像にキリスト教の祈りを捧げていたことは知りませんでした。偶像崇拝に当たらないのでしょうか。

また、マリア観音像というものもありました。平戸焼という磁器で作られた白い像なのですが、聖母マリアを投影しているものです。

観音はもともと男性ですが、中国で慈母観音と女性に変化し、それをキリシタンが聖母マリアとして信仰したものです。多くの場合、観音像は中国製なのですが、信心を込めて作るようできるだけ平戸で作られたようですが、実際は、禁教の時代に役人に見つかっても言い訳できるように、平戸焼で作っていたのでしょう。

西坂公園を17時出ますが、まだまだ時間があります。何気なく歩いていたら、県営バスターミナルの2階に長崎県物産館という大きなお土産屋がありました。長崎カステラやちゃんぽんに皿うどんといった常温のものから、角煮まんじゅうや魚の一夜干しなどの冷凍・冷蔵のお土産が種類豊富にあります。波佐見焼などの陶磁器もありました。JR長崎駅前から近いのでお土産を探している人は立ち寄ってみるのもおすすです。

お土産屋でゆっくり時間を潰してから、何時か忘れましたが思案橋にあるネットカフェに入店して、この日の予定は終了です。後半は時間を持て余してしまいました。本来は、稲佐山で夜景を楽しみたかったのですが、あいにくロープウェイが運休していました。耐震化工事のため、2015年5月~2016年2月はロープウェイが動いていません。縁がなくて残念ですが、代わりに出島や西坂公園でいろいろと知ることができたので、よしとします。

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