【京都】豪華絢爛 武家文化最高傑作と名高い御殿 二条城の歴史と見どころを解説(旅6日目③)

京都府

今回は世界遺産に登録されている京都の観光名所、二条城の見どころと歴史を紹介します。
徳川家康により、京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所とするために築城された二条城は、絢爛豪華な二の丸御殿の建築や障壁画が評判で、多くの観光客が訪れる人気の観光名所です。
あいにく城内は撮影できないので外の景色とパンフレットの画像での説明となりますが、できる限り二条城の魅力をお伝えしたいと思います。

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アクセス

二条城は京都市営地下鉄の東西線の二条城前駅から直ぐです。
この日は嵯峨嵐山から行ったので、右端の太秦天神川駅から向かいました。

JRの二条駅からもアクセスできますが、15分以上は歩くので、雨の日や夏や冬は地下鉄がお勧めです。
地上出口に出ると、江戸時代初期に造られた東南隅櫓(とうなんすみやぐら)が目に入ります。

二条城の建物・特徴

二条城は慶長8年(1603年)に江戸幕府の初代将軍徳川家康が、天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所とするため築城したものです。

大政奉還が行われた場所として知られており、徳川の時代である江戸時代の始まりと終わりを象徴する場所でもあります。

道路沿いの受付所で入城料を払い、東大手門から城の中に入ります。
二条城の堀は小さく、防御機能よりも見た目の美しさが重視されているといわれています。

将軍滞在の城としては規模が小さく防御能力が優れているとはいえませんが、
家康は城が一日二日も持ちこたえれば周辺から援軍が来るため、また城が敵の手に落ちた時に取り返しやすいように、防御力を重視しなかったと言われています。

二の丸御殿の正門の唐門から中に進みます。
2013年(平成25年)の修復工事によって往時の姿がよみがえった唐門には、
長寿を意味する「松竹梅に鶴」や聖域を護る「唐獅子」などの豪華絢爛(けんらん)な彫刻を目にすることができます。

そして門の先には国宝の二の丸御殿があります。
城内は撮影禁止なので、ぜひ実物をご覧になっていただきたいのですが、東南から北西にかけて6棟が雁行の形に建っています。

二ノ丸御殿では江戸時代初期に成熟した書院造の典型例を観ることができます。
書院造とは、平安時代末期から台頭した武士が、貴族の寝殿造に代わって新たに造りだした住宅様式です。
寝殿造との大きな違いは、襖や障子などの仕切りが発達し、屋内を細分化し各部屋の機能を明確にし、接客の場として畳を敷き詰めた座敷を生み出した点です。
 
二の丸御殿は、書院造の建物の中でも対面所として特化しており、
絢爛豪華な空間は徳川将軍の権威を表し、他大名との身分を明確にしています。
城としての防御機能よりも、政治的な機能を重視した建物ということができます。

そうした御殿はかつては江戸城・大坂城・名古屋城にもありましたが、今日ではここ二条城を除き失われてしまい、そのため二条城は現在国内の城郭に残る唯一の御殿群として国宝に指定されています。

いただいたパンフレットで簡単にそれぞれの間を紹介します。
入口に近い遠侍(とおざむらい)は訪問者が控える所で、部屋の襖や壁には獰猛な虎が描かれ、徳川家の権力の大きさを実感させる壮大な空間が広がります。

その奥にある式台は将軍への用件や献上物を取次ぐ場所で、大名が老中と挨拶をし、将軍への取次ぎが行われたとされる部屋です。
障壁画には永遠に続く繁栄を表すおめでたい植物の松が描かれています。

さらに奥に進むと、将軍が大名や公卿と公式に対面する大広間があります。
上段と下段に分かれていて、上段の一の間には、書院造りの特徴である床の間、違棚、付書院、帳台構が備えられています。
写真では見えずらいのですが、天井は「二重折上格天井(おりあげごうてんじょう)」という、くぼんだ形の、最も格式が高いとされている様式になっています。

付書院:書見台。もとは貴族や僧が読書するために明かりをとったもの、障子など
帳台溝:納戸や警護の武士が控える武者隠し
床の間:書院造りの成立過程で生まれた。欧米や他のアジア諸国の住宅には、このような一見無駄な空間はない

対面の際には、将軍は一の間で南を向いて座ったと解説がありましたが、これは天子南面思想を表していると思われます。

檜の板を両面から透かし彫りにした欄間の彫刻もこれまた豪華で見ごたえがあります。

そしてその奥には黒書院があります。
大広間に次ぐ公式の場で、将軍と徳川家に近く親しい大名や高い位の公家などが対面した場所です。

その奥にある白書院は、将軍の居間と寝室と考えられています。
他の部屋とは違う水墨画に包まれた落ち着いた空間となっています。

一番奥の白書院まで行くと、違うルートを歩いて入口の方に折り返します。
二の丸御殿の廊下は「鶯(うぐいす)張り」と呼ばれる、人が歩くと鳥の鳴き声のような音がする造りとなっています。
以前は鶯張りは侵入者を察知する忍び返しと言われていましたが、パンフレットの解説によると、「目かすがい」という金属と釘のこすれによって生じる音だとされていて、床の音は近年では金属の経年劣化により発生するものだということが分かります。

二の丸御殿には、日本絵画史上最大の絵師集団だった狩野派によって描かれた障壁画が約3600面残されており、そのうち1016面が国の重要文化財に指定されています。
幕府御用絵師であった狩野派の若き棟梁だった狩野探幽が一門の総力を挙げて制作したものです。

障壁画の他に欄間や釘隠(くぎかくし)などからもその豪華な意匠を観ることができ、
絢爛豪華な空間と、身分の違いや序列を明確にした厳格さや秩序が合わさった独特の空間は、
二の丸御殿が対面に特化した書院造であることを十分に感じさせてくれます。

武士の住宅様式として生まれた書院造が、時代の流れにより日常的な住まいから接客空間としての広間となり、さらに儀式の場としての対面所になるという変遷が、ここ二条城の二の丸御殿からは窺えます。

二の丸庭園と建物の外

二の丸御殿を楽しんだ後は、隣にある二の丸庭園を鑑賞します。
池の中央に蓬莱島(じま)、左右に鶴亀の島を配した書院造庭園で、
寛永3年(1626年)の家光の時代に、後水尾天皇の行幸のために改修されたと言われている庭です。

大名であり茶人であり、建築家・作庭家でもあった小堀遠州が改修に関わった庭ですが、残念ながら、その後の庭園の改修により遠州の意図は現在は薄れてしまっています。

庭園では菰(こも)が巻かれ防寒対策をされた蘇鉄の木が目を引きます。

毎年11月下旬~12月初旬頃に、蘇鉄の幹全体に菰や藁など巻く防寒養生は、二条城の冬の風物詩となっているようです。

蘇鉄の木は、後水尾天皇行幸に先駆け鍋島藩主が蘇鉄を1本献上したことが記録されており、江戸時代初期から植えられていたようです。
先程の二の丸御殿に蘇鉄の間があり、そこには大きな蘇鉄が描かれていましたが、
南国の木の象徴である蘇鉄を描くことで、徳川の天下泰平の世が九州の隅にまで行きわたっていることを意味していると書かれた本がありました。

桃山時代から江戸時代初期に蘇鉄の木を庭園に植えることが流行ったようですが、
二条城においてはそうした意味合いもあったのかもしれません。
※鍋島藩は現在の佐賀県。
『東武実録』に記されているらしい。

そして堀を渡って本丸御殿に行きますが、あいにく改修工事で見学できませんでした。
残念ながら本丸庭園も歩けませんでした。

階段を上り天守閣跡に行くと、高台から周りを見渡すことができます。

案内板には、二条城が築城された江戸時代初期当時は、天守閣が清流園という後ほどご紹介する場所にあり、大和郡山城にあったものが使われたが、
寛永3年(1626年)に拡張するため伏見城から天守閣が現在の場所に移築されたことが書かれています。

内部が地上5階、地下1階の大きさで屋根には瓦型の銅板が葺(ふ)かれていたようですが、寛延(かんえん)3年(1750年)に落雷で焼失してからは再建されることがなかったのだそうです。

東大手門から反対側の端の西門の近くまでやってきました。
ここから折り返して戻ります。

途中、寛永3年建築と伝わる土蔵があります。

案内板によると、城に土蔵が残るのはここ二条城だけと書かれていました。
江戸時代は10棟の蔵があり食料だけでなく火縄銃の弾薬などを保管する武器庫もあり、現在はうち3棟が残っています。

土蔵から清流園に向かう道には椿の木が並びます。

昭和28年(1953年)頃より植えられたもので、この通りには約240本・80品種程のツバキが植えられているようです。

清流園の前には北中仕切門(きたなかしきりもん)があり、鉄板らしきもので門が覆われています。

織田信長が安土城に鉄板を張り詰めた鉄門(くろがねもん)を建てたのが、門に鉄板を張り付けるようになったはじまりと言われています。
※鉄門(くろがねもん)は黒鉄門とも書く

本来荘厳さと大砲から門を守る際の防御性とを兼ね備えたものでしたが、時代が経つにつれて門の柱の素材の悪さを誤魔化すために使われるようになっていった、なんて話もあります。

それまでは、一般的に、城の天守や櫓の柱は厚い土壁で保護されていますが、城門の扉やそれを支える柱は白木(しらき)のままでした。
それを防御性と高めるために、織田信長が安土城で鉄門(くろがねもん)を建て、扉やそれを支える柱(鏡柱)に鉄板を張り付けた、以来、城で最も重要な門は鉄門となりました。

黒鉄門(くろがねもん)は厳密には、扉や鏡柱の表面に隙間なく鉄板を張り詰めたものを指し、
少し隙間をあけて筋状に鉄板を張った筋鉄(すじがね)門と区別しましたが、城によっては筋鉄門も鉄門と呼ばれたようです。
江戸時代になると鉄板の代わりに銅板を張った城門も現れ、銅門(あかがねもん)と呼ばれました。

厚さ1分(3mm)幅二寸(6cm)の短冊形の筋鉄を釘で打って留める。雨水が鉄板の繫ぎ目から入らないように縦に張るのが一般的で、
筋鉄を扉や鏡柱の表面に張っておくと、大砲による攻撃を跳ね返すことができます。

しかし、ごまかしのために用いられたケースもあり、
本来城門の鏡柱は松や杉のような安物の木材では城の表を飾るのに適しておらず、木目が美しくて堅い、最高級の木材である欅(ケヤキ)が一番好まれますが、
欅は高くしかも大材は手に入り難く、入手しても経年でよく曲がったり反ったりする性質があり、維持管理に費用がかかります。

そこで松や杉の角柱を数本束ね、その表面に欅の薄い板を張り、その欅の板の繫ぎ目を隠すために、鏡柱に筋鉄を張ったようです。
そうした門は、軽く叩いてみると中味が空っぽの音がするらしいです。
『名城を歩く20 二条城 桃山の美に彩られた徳川家盛衰の舞台』より)

そして清流園を歩きます。

写真は反対側、二の丸御殿側にある説明板です。

大政奉還の後(のち)、明治時代に皇室の離宮となり、戦後は進駐軍の意向によりテニスコートが作られたこの場所に、昭和40年(1965年)に清流園が造られました。
江戸時代に大堰川や高瀬川を開削した京都の豪商・角倉了以の屋敷跡から建築部材、庭石、樹木を譲り受けて造られた庭園です。
※角倉了以は富士川・天竜川・庄内川も開削しており、水運の父といわれている。

世界で一番有名な日本庭園と言われることもある足立美術館の設計に携わった方が清流園を造ったといわれることもありますが、調べた限りでは分かりませんでした。

大政奉還が行われた二条城は正に徳川の時代を象徴する場所だと思われがちですが、二条城のホームページによると、
将軍の宿泊所として造られた二条城も3代将軍家光の上洛以降は、14代将軍家茂(いえもち)が上洛するまでの229年間は将軍不在のまま幕末を迎えたとありました。
15代将軍慶喜(よしのぶ)が上洛した時には、樹木はほとんどなく、池は枯渇して枯山水風の景観だったと言われるほど荒廃していたようです。
(二条城のホームページより
https://nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp/introduction/highlights/teien/

大政奉還後に宮内省のものとなり改修が行なわれ、天皇の別邸として、また迎賓館的な城として利用された二条城は、その際に大規模な植栽工事が行われ、それが現在の景観の基本的なものになったようです。
二の丸御殿や土蔵、石垣からは確かに徳川の武家政権が感じられますが、明治以降に造られた庭園や戦後に植えられた樹木を観てみると、江戸時代だけでなく明治・昭和の時代も感じられる場所であることが分かります。

二条城には以前来たことがありますが、今回敢えて再訪したのは、庭園に植えられている樹々を観たかったからでした。
2015年の夏に来た時にはこのような案内板があり、非常時に備えて木が植えられている説明が個人的には興味深いものでした。
食料となる実をつける木や燃料・明かり・建築材に使える木といった、戦争や災害の際に利用価値が高い樹木が植えられていました。

実用的な木が植えられているのはいかにも武家らしく、二条城の魅力として動画で紹介したかったのですが、残念なことに改修していた本丸御殿の周りだけでなく、堀の外の庭園部分も歩くことができませんでした。
二条城のホームページを見る限りでは、以前あった樹木の一部は現在なくなってしまっているようです。

二条城の入城料は決して安くはなく、入場料だけで800円、二の丸御殿の観覧料を合わせると1300円という料金です。
外国からの観光客も多く有名な観光地だけに、二の丸御殿以外にも見どころがあることを紹介したかったのですが、今回は残念ながらできませんでした。
機会があればまた挑戦したいと思います。

youtube

二条城はyoutubeでも紹介しています。是非ご覧ください。

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