【京都・滋賀】江戸時代に造られた日本初の線路 車石(旅7日目)

京都府

今回は、かつて東海道の京都と大津を結ぶ京津街道に敷かれていた車石をご紹介します。

江戸時代、京都と大津を結ぶ京津街道には、約12キロにわたり車石という、石が敷かれた牛車専用の車道がありました。近代になるまで日本では、舗装された道路が発達せず、また馬車などの人力以外の荷車が普及しませんでした。そんな江戸時代、京都に牛車専用の車道が造られ、牛車が往来したことは非常に興味深いものがあります。

今回は京都の山科から滋賀の大津までの旧東海道を歩き、点在する江戸時代に使われていた車石を観ながら、車石と街道沿いの歴史や文化を紹介したいと思います。
旅をしたのは2022年の3月中旬です。

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車石とは 九条山車石と日ノ岡峠(旧日ノ岡峠)

車石は山科と大津の間の旧東海道に点在しています。
まずは京都の東山地区近くにある九条山車石広場を観てみたいと思います。

蹴上駅から三条通りを14分ほど歩くと着きます。蹴上駅は南禅寺や蹴上インクラインの最寄り駅です。
日ノ岡峠という、かつて東海道の終点、京都三条大橋に向かう最後の難所だった峠を下ります。

こちらが車石広場です。牛が引いた荷車と江戸時代に実際に使われていた車石が保存されています。

頑丈で厚みのある花崗岩を道に敷き、牛車の通行を助けました。
当時の道は土だったので雨が降るとぬかるみ、牛車が立ち往生しました。
そこで石を敷いて牛車が道を通れるようにしました。

牛車の通行により硬い石が擦り減り凹んでいます。
多い時は1日60~70輌の牛車が通ったといいます。

荷車の車輪はこのような形だったようです。
荷車はイメージで実際に使われていたものではなく、当時の荷車は9俵の米俵を運び、車体はもう少し短かったと思われます。

かつて大津で米俵などが載せられた牛車がこの道を進み、東海道の終点、三条大橋に向かったのでした。

大津から三条大橋までは三里、約12kmありましたが、その街道に車石が敷かれてました。
興味深いのが、牛車専用の道が造られた点です。これは日本で初めての車道です。

こちらは大津駅近くにある説明板の車石の絵ですが、人や馬の通る人馬道より一段低い所に車石が設けられています。
急な峠道を少しでも緩やかにして牛に大きな負担をかけないようにするためと書かれています。
人馬道には常夜燈が建てられ、暗くなっても牛車が通れるようになっていました。
一車線だったため、午前と午後で方向を逆転させる一方通行の規制がありました。
※出典:山田邦和『京都知られざる歴史探検 上』

車石は、江戸時代の後期にできましたが、牛車の通る車道自体は、日ノ岡峠では宝永3年(1706年)にはできていて、逢坂峠ではそれ以前の元禄年間に既にありました。
※出典:『京都の歴史を歩く』
※元禄年間:1688年から1704年までの期間

牛車の読み方ですが「ぎっしゃ」とも「ぎゅうしゃ」とも読みます。
「ぎっしゃ」と読むと平安時代の貴族の乗り物と混同する可能性があり、また「ぎゅうしゃ」と読むと牛小屋と混同する可能性があるので、ここでは「うしぐるま」と読むことにします。本によっては「ぎっしゃ」「ぎゅうしゃ」と書かれているものがあります。

ここから坂を下ると45分ほどで山科駅に着きます。
そのまま大津まで歩きたいところですが、この日は清水寺や六波羅蜜寺に参拝する予定があったので一旦折り返しました。

蹴上駅に戻る上り坂は山が近く、かつて峠道だったことを感じさせます。
しかし途中にある粟田口刑場跡の看板によると、この坂は昔の日ノ岡峠ではありませんでした。
幕末の慶長3年(1867年)に急峻な日ノ岡峠を避け、その北に新たな道を付け替えた新日ノ岡峠に続く、粟田口峠でした。
付け替えにより今歩いている粟田口峠が新日ノ岡峠の最高地点となったため、明治時代に日ノ岡峠と呼ばれるようになったのだそうです。
さらに明治8~10年にかけて切り下げ工事が行われ、昭和6~8年にかけて京津国道の改良工事が行われ景観が一変し、現在は当時の面影が感じられなくなっています。

後ほどご紹介する逢坂峠は、日ノ岡峠と同時に進められた慶長年間の切り下げ工事で、峠の最高地点が6mも低くなったといいます。同様に日ノ岡峠も、江戸時代は現在よりも峠が高く険しい道でした。

峠を上り左手にあるのが蹴上浄水場です。
この辺りには、前々回の音声解説動画でご紹介した蹴上インクラインがあります。
また明治期の日本近代土木事業の中でも金字塔といわれる琵琶湖疏水を分かりやすく解説している琵琶湖疏水記念館や、明治時代に造られ今もなお現役で使われている南禅寺水路閣もあり、歴史散策が好きな人にはお勧めの場所です。

さて、清水寺や六波羅蜜寺に参拝した後に京都駅に行き、山科駅に向かいます。

京都駅から山科駅は一駅で乗車時間は5分ほどです。

混んでいない時はホームドアの近くの座席が使えるようになっていて、初めて見るもので新鮮でした。
こんな感じに座ります。

山科と大津市横木町

山科駅に着き、ここから大津駅まで歩きます。
距離にして約5.5km、1時間ちょっとの道のりです。

歩くと早速、車石がありました。

説明板には、文化元年(1804年)から翌2年にかけて車石が敷設(ふせつ)され、当時としては画期的な街道整備だったことが書かれています。

山科駅の近くは結構車の通りがあり、歩くのに注意が必要した。
江戸時代の東海道は、現在は旧東海道と呼ばれています。
かつて東海道では松並木が植えられ牛車が通り、道筋の商家や農家は街道の整備や補修を負担しなければなりませんでしたが、山科の住民は、落ち葉や牛馬の糞を燃料や肥料に使い、その恩恵を受けたといいます。
『京都の歴史を歩く』

横木町に入ると、また別の説明板があります。

江戸時代中期の安永8年(1778年)には牛車だけでも、年間15,894輌の通行があったと書かれています。1日に平均すると約43輌です。

また、京都の心学者の脇坂義堂が文化2年(1805年)に1万両の工費で大津八町筋から京都三条大橋にかけて約12kmの間に牛車専用道路として車石を敷き並べたことが書かれています。
(※1800年代の1万両は6億円~10億円か)

YouTubeでは紹介できなかった内容です。
脇坂義堂は幕府に進言し許可を得ましたが、工費は自分らで集めねばならなかったといいます。
車石・車道研究会のHPによると、拠金を呼びかけたところ、社中から750両、日野の豪商中井源左衛門から250両が拠出されたとあります。
残りの9000両は街道沿いの住民から集めたり、運賃などに反映したと思われます。
讃岐の豪商安藝栄柱幸四郎が工費の一部を出した可能性も書かれていましたが、巨額な工費の大半は住民や牛車を使う商人が捻出したのではないかと思われます。
出典:車石・車道研究会のHP
http://kurumaishi.jp/about_kurumaishi/
出典:『京都の歴史を歩く』

その横にある説明板もいい内容で、こんなことが書かれています。
上には、
この地は横木と言われ、豊臣秀吉が京都方広寺に大仏殿を造営した際に、巨石を運搬するのに大変な苦労をしたため丈夫な木を横に引き詰め、荷車の通行に役立てた。それが江戸時代に花崗岩に取り換えられ、車石ができた
とあります。

下には、
この地は越前の産物や近江米を京都に運ぶ重要な街道で、水車を使って精米する米屋が点在し、またどうはれ茶屋という立派な茶店があった、とあります。

こういう説明板があると、歩くのが楽しくなるものです。
米を運ぶ街道には精米所があり、そこでは水車が使われていたことも興味深いものです。

歩道橋を渡って大津に向かいます。

YouTubeでは紹介できなかった内容です。
Wikipediaによると、近江国は安土桃山時代には陸奥国(現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県)に次ぐ石高で、江戸時代には品質の評価も高かったようです。
品質の高さは米の品種によるものではなく、琵琶湖の粘土層に含まれるミネラル成分によるもので、またこの粘土層により生産する際の水管理が容易となり、品質が向上したといいます。
明治の地租改正で品質が下落した後、品種改良などの取り組みが進められ、2019年において、滋賀県の主食用水稲生産高は15万3700トンで、近畿地方では兵庫県(17万5400トン)に次いで多いです。
農地面積のうち、水田の割合を表わす水田率が90%以上もあり、富山県に次いで全国2位です。滋賀県では農業といえば稲作を指すようです。

横木一丁目に入りました。

こちらの閑栖寺(かんせいじ)には、境内に車石の車道を復元したものがありますが、残念ながら中に入れず、見れませんでした。

説明板には、京に向かって右側に車石の敷かれた車道があり、旅人の安全を確保するために左側に人や馬の通る人馬道が一段高く設けられていた、と書かれています。

歩いた時は、横木町は車の通りが少なく歩きやすい道でした。

追分町

真っすぐ進むと、右手にある伏見街道と合流します。
大津から京都へ向かう際はここが東海道と伏見街道の分岐点となるため、追分町と昔から呼ばれています。

YouTubeでは紹介できなかった内容です。
追分という地名は、道が二つに分かれる場所をさしています。
元々は牛馬を追い分ける場所を意味し、街道の分岐点も意味するようになり、各地に地名として残り、そこから派生して、そうした場所で歌われた民謡も指すようになったのだそうです。
Wikipediaより

同様に、道が合流する場所を「落合」や「出合」といい、こちらも各地の地名として残っています

京都と滋賀との境界でもあります。

追分町は、平安時代から逢坂峠を越える旅人の休憩場所でした。
江戸時代は、逢坂峠にかけての道沿いに旅人向けの饅頭屋がたくさんあり、
外郎餅や羊羹などが好評だったと、翌日に行った大津市歴史博物館で知りました。

大谷町

追分町から大谷町までは緩やかな坂を上ります。反対に大津から京都へ向かう際は、緩やかな下り坂になるため、旅人や商人が安心して歩いたのだろうと思われます。

こちらは一里塚があった場所です。少し先に大津算盤を広めた片岡庄兵衛の碑がありますが、一里塚の前でお店を構えていたようです。

YouTubeでは紹介できなかった内容です。
一里塚(いちりづか)は大きな街道の側に1里、約3.9km毎に塚を造り、榎や松を植えて旅人の目印にしたものです。
日本では、平安時代末期に奥州藤原氏が白河の関から陸奥湾までの道に目印を立てたのが最初と言われ、江戸時代に家康によって一里塚が全国的に整備されるようになったといいます。
一里塚の大きさは5間(約9m)四方、高さ1丈(約1.7m)に土を盛り上げてつくられ、塚の上に榎などの木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるように配慮されていました。植えられた樹木が築いた塚の崩壊を根で防ぐ役割もあったといいます。

一里塚は本来、街道の両側に対で設置されるものでしたが、現存する一里塚の多くは道の片側にのみ存在しています。
一里塚は一般的に榎を植えられることが多く江戸時代は榎が過半数を占め、次に松が4分の1強、ついで杉が1割弱、他に栗、桜、檜、樫が数本ですが植えられることもありました。

片岡庄兵衛は慶長17年(1612年)に明から長崎に渡来した算盤を参考にして、算盤を製造し、この地で販売しました。これも大津市歴史博物館の展示で知りましたが、庄兵衛は明の算盤の玉が丸みを帯びていたのを、弾きやすいように菱形に削り、釘や金具を使わずに作りました。
これには高度な技術が要りましたが、専門の職人に分担させて作らせました。
また職人が他の作業を習得しないように厳しく管理し、技術が外に漏れないようにしたといいます。
そのようにして、片岡庄兵衛は多くの職人を統率し、江戸時代に大津算盤の名を全国に広めました。

これやこの 行(ゆ)くも帰るも 別れては
知るも知らぬも 逢坂の関

百人一首の有名な蝉丸の歌です。

この辺りには京阪電車の大谷駅があります。

平安時代中期の琵琶法師で歌人として知られた蝉丸を祀った、蝉丸神社があります。蝉丸は逢坂山に住んでいたようです。
この先にある関蝉丸神社の上社と下社を総称して蝉丸神社ということもあるようです。
蝉丸は神社に祀られるほどの人物だっということですが、どのような生涯だったのか、気になります。

大谷駅の近くには、明治5年創業のうなぎのお店のかねよがあります。
うな丼に大きなだし巻き卵をのせたきんし丼が有名なようです。

かねよには東海道五十三次の大津宿の絵があり、かつては走り井という、こんこんと湧き出る井戸があったことが書かれています。
江戸時代、この湧き水で作った走井餅(はしりいもち)は大津名物として多くの旅人たちのお腹を満たしました。

大津市逢坂

そして逢坂の関跡にやって来ました。

江戸時代の掘り下げにより正確な位置は分かりませんが、大体この辺りにあったようです。

逢坂山付近では江戸時代、大津算盤や走井餅(はしりいもち)の他に、大津針大津絵が旅人に人気でした。
現在は途絶えてしまいましたが、大津針は良質と評判で、
大津絵は独特の絵柄が好評だったこの辺りのお土産でした。
大津絵は後ほどふれます。

逢坂関は平安時代初期より、不破関(ふわのせき)と鈴鹿関(すずかのせき)と並び、京都を守る重要な役割を担いましたが、平安時代後期には形骸化しました。
室町時代は三井寺が関銭(せきせん)を徴収し莫大な利益を得、室町幕府と経済的利権を争った場所でもあります。
(三井寺の僧兵が南禅寺所轄の関所を壊したため、その報復として焼かれた歴史があります)

近くには関寺の牛塔(せきでらのぎゅうとう)という、鎌倉時代に建てられた3.3mの石塔があります。
YouTubeでは紹介できなかった内容です。
昔この地に関寺という大きな寺院がありましが、平安時代に地震で倒壊し、その復旧工事の際に牛が資材を運搬しました。その牛は仏の化身と噂され、牛が死んだ後に供養のために高さ、重要文化財となっているのだそうです。

こちらの常夜燈は車石の上に立っています。
寛政6年(1794年)に米屋の主人によって奉納されたもののようです。
こうした常夜燈が江戸時代は京津街道に並び、日が暮れてから通行する人馬や牛車を助けました。

この辺りは、急に歩道が狭くなる場所があり、反対側に渡らなければならず、歩きにくい場所でした。

逢坂峠は昔は、先ほどの日ノ岡峠と並ぶ京津街道の難所でしたが、逢坂の関付近は坂がきつくなく拍子抜けしました。
それもそのはずで、昔はもっと峠が高く険しい道でしたが、慶長年間に切り下げ工事が行われ、峠の最高地点が6mも低くなりました。
出典:『京都の歴史を歩く』

関蝉丸神社の下社

大津百町、関寺町の文字が見えると、いよいよ大津駅が近づいてきました。
逢坂峠を越えてから琵琶湖まで東西に拡がるエリアを「大津百町」といいます。

大津市春日町

JR大津駅の近くにある、まつや公園には大津を紹介した説明板があります。
逢坂峠を越えて大津百町に入ると、街道の両脇に旅籠が軒を連ね、その向こうに琵琶湖が見える様子が歌川広重の絵に描かれています。

牛の背中に載せられている藁は、暑さ対策の日除けなのだそうです。
大津宿は、江戸時代には琵琶湖水運の港町として、また東海道の宿場町として、そして三井寺の門前町として賑わいました。
東海道の宿場町で人口が一番多く、東海道一の繁栄を極めました

大きな町には祭りがつきもので、大津でも豪華な曳山が練り出す大津祭が毎年10月に行われました。それぞれの町が曳山を出し、曳山には歌謡や故事にちなんだからくりが載せられました。

独特の色合いと個性的なキャラクターが特徴の大津絵は、大谷から追分辺りで売られ、看板に描かれている鬼念仏をはじめ、風刺や教訓を含んだ個性的なキャラクターが好評でした。
大津市歴史博物館の展示によると、風刺や教訓が込められた大津絵は後に護符を意味するようになり、例えば鬼念仏は子供の夜鳴き止めの効果があるとされ、旅人に評判となりました。

大津絵には道歌(どうか)という道徳的・教訓的な短歌がキャラクターの周りに書かれています。鬼念仏の絵には、外面ばかり取り繕っても本心に誠意や真心がなければ内面にひそむ鬼心に支配され、邪な心となって現れるとうたっています。
旅先で出会う者への用心を促し、また開放的になり羽目を外しやすい旅人を戒める歌でもあったと思われます。

駅から少し離れたかすが緑地にも車石と説明板があります。米俵9俵を積んだ牛車の重さは540kgあり、多い時は1日に60~70台の牛車が通ったと書かれています。
車石はここにあった石垣から発見されたものです。

そして山科駅から歩くこと1時間10分、JR大津駅に到着しました。

駅の近くには、動画の始めの方で紹介した車石の説明板があります。

一部繰り返しになりますが、このような説明がされています。
18世紀初頭には、街道の保全や安全のために既に人馬道とは別に牛車専用の車道が設けられており、逢坂峠の幅約4.5mのうち約2.7mが車道だった。
18世紀中期以降になると、車石が考え出され車道の一部区間に敷設され、文化元年から2年にかけて逢坂峠に車石が敷設された。
幕末の嘉永6年(1853年)には1日に60~70輌の牛車が9俵の米俵を積んで京都へ向かった。
大津に集められた年貢米は大津の米商人たちによって買い取られ、牛車の他に人や牛馬の背によって京都へ運ばれた。

とあります。

幕末に物量が増えたのは、徳川の世が不安定になると多くの武士が京都に集まるようになり、お米をはじめとした日用品が不足したからでした。
それまでは、江戸時代初期に西廻り航路が整備されて以来、東国や北陸から京都に運ばれていた物資は瀬戸内海を通り大坂経由で運ばれるようになり、大津から京都への物資は減ったといいます。
京津街道に逢坂峠と日ノ岡峠の難所があったため運賃がかさんだのが理由の一つとされています。

これは江戸時代中期の記録ですが、京都に運ばれた米93万俵のうち、13万俵が人により運ばれ、46万俵が牛や馬の背中に載せられて運ばれ、22万俵が牛車によって運ばれたといいます。牛車で運ばれた米は全体の20数パーセント程度に過ぎず、この割合は幕末になってもそれほど変わらなかったのかもしれません。

とはいえ、12kmの道に途中大きな峠を二つも挟んで車石が敷かれ、その上を牛車が通ったことを想像すると、当時の日本にそのような線路があったことに驚きを隠せません。
車石は京津街道の他に、京都から伏見までの竹田街道と、京都から淀への鳥羽街道にもあったといいます。いずれも京都の周辺の街道だけに限られていましたが、近代になるまで、砂利道や石畳などの一部の道路を除き舗装された道がなく、また馬車などの人力以外の荷車が発達することのなかった日本で、車道が造られ牛車という動力が使われたことは、非常に興味深いものです。

※出典:山田邦和『京都知られざる歴史探検 上』

峠に敷かれた車石は人馬道よりも一段低くなっていたため、雨が降ると水が流れたり溜まったりして歩くのに苦労したと思われます。
そんなことから物流における先人たちの苦労 と知恵を知れます。

YouTube

ご紹介した車石はYouTubeでも紹介しています。映像の方が分かりやすい箇所があるので、動画も是非ご覧ください。

参考文献

山田邦和『京都知られざる歴史探検 上』新泉社 (2017年)

小林/丈広・高木/博志・三枝/暁子『京都の歴史を歩く』岩波書店 (2016年)

竹村公太郎『日本史の謎は「地形」で解ける 環境・民族篇』PHP文庫(2014年)

今回の記事で直接参照や引用はしませんでしたが、車石を知るきっかけになった本です。なぜ江戸時代に車の動力が人間に退化したのか、なぜ京都が日本の線路誕生の地となったのか、車石にふれながら解説していて興味深い本でした。

参考サイト:車石・車道研究会のHP

車石・車道とは | 車石・車道研究会 (kurumaishi.jp)

おまけ

JR大津駅の近くにある観光案内所はいい場所でした。ソファがあり休憩でき、お土産が充実していて、そして琵琶湖周辺の観光マップを無料で提供していました。翌日参拝した石山寺の地図は特に分かりやすく、いいマップでした。

近江ちゃんぽんのお店に入りましたが、これが美味しかったです。別館で紹介しています。

【滋賀】シンプルなのに美味しい、何が美味しいのか伝えられないけど美味しい、近江ちゃんぽん | 四季を気ままに (shikikimama.com)

この日の寝床はネットカフェでした。

散々歩いたので(鴨川近くのホテル→蹴上インクライン→九条山車石→清水寺→六波羅蜜寺→六道珍皇寺→京都駅→山科駅から大津駅)、15時間パック税込3,450円を取りました。

コロナ禍でホテルが安かった時期だったので、割高に感じましたが個室で寛げ、十分に休息できました。

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