今回は奈良の世界遺産春日大社の見どころと歴史を紹介します。春日大社は藤原氏により平城京を守るために造られた神社です。江戸時代までは興福寺の境内にありました。興福寺は藤原氏により造られその保護を受け、中世まで大きな力を持ち大和国を支配した寺院です。そんな興福寺と深い縁がある神社なので、興福寺と一緒に参拝するのがお勧めです。春日大社は、鹿や灯籠、式年遷宮が有名です。
※旅をしたのは2022年3月です。拝観料などは当時の金額です。
春日大社の鹿
春日大社といえば鹿が有名です。奈良公園の周辺では鹿が放し飼いにされていますが、鹿は奈良時代から春日大社の神の使いとして大切にされ、鹿を殺すことは死罪にあたるとされていました。春日大社が創建された時、東国の鹿島神宮から強力な戦さの神である武甕槌命(タケミカヅチノミコト)をお招きした際、鹿に乗って来られたことから鹿は神さまの使いとして信仰されました。
鹿は古くから神聖な力を持つ生き物として銅鐸などに描かれてきましたが、鹿が神聖視された理由には、毎年落ちては生え替わる大きな角があったことが挙げられます。人間の周りにいる牛などの角のある動物の中で、角が生え替わるのは鹿だけです。
そのため鹿は生命力がある生き物として、また大変縁起の良い生き物として、神聖視されてきました。
中国では百歳生きた鹿は白鹿(はくろく)、五百年生きた鹿は玄鹿(げんろく)、千年生きた鹿は蒼鹿(そうろく)として、瑞兆の霊獣とされ、その思想は日本にもたらされました。
※一般的な鹿の寿命は雄が10~15年、雌が15~20年
ついでですが、動物の骨を焼いて吉兆を占う太占(ふとまに)は雄の鹿の骨が使われます。鹿は古来より日本の祭祀と深い関わりがある生き物でした。
※太占:雄鹿の肩甲骨を灼いて入ったヒビの様子から、その年の作物の作況などを占うもので、『古事記』にも登場する古い占い。
鹿の角は3月頃に抜けるようで、ちょうど旅をした3月の中旬は雄の鹿に角が生えていませんでした。角のある鹿を見たい人は秋に奈良公園を訪れるのがいいようです。
平安時代より、春日大社の敷地にいる神の使いの鹿を殺めた者は法で死罪と定められましたが、実際に鹿殺しだけで死刑になることは滅多になかったようです。僧殺しと鹿殺しが重なった場合に死罪になることがあり、また、神社の境内から出ると田畑の作物を荒らす鹿を殺すことは珍しくなかったようです。
終戦後は食糧難で鹿が狩られ激減してしまい、安芸の宮島や鹿島神宮は元々いた鹿が戦後にいなくなってしまったため、奈良の鹿が譲られたといいます。
※昭和32年(1957年)に国の天然記念物に指定される
YouTubeではお伝えできなかった内容です。
鹿の角は雄特有のもので、毎年3月頃になると自然に根元部分から脱落して新しく生え替わります。新しい角が生える期間は血管が通っていますが、8月下旬頃からカルシウムが沈殿し根元から角化し、血管がなくなります。例年10月に鹿の角を切る「鹿の角伐り」が行われます。寛文12年(1672年)に奈良奉行により始められた行事で現在は3日間行われます。
春日大社の創建と参道の灯籠
東大寺の南大門から春日大社の南門まではゆっくり歩いて15分くらいです。
春日大社は768年に平城京を守護するために、藤原氏が興福寺の敷地に創建した神社です。当時東国で蝦夷との戦いの最前線に祀られていた鹿島神宮の武神(ぶしん)、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)と香取神宮の武神(ぶしん)、経津主命(フツヌシノミコト)を勧請し、藤原氏の氏神様の天児屋根命(アメノコヤネノミコト)とその妻にあたる比売神(ヒメガミ)を勧請し、祀りました。
※藤原氏は元々は中臣姓で、中臣家の氏神を現在の大阪から招いた。
前回の動画で紹介した東大寺が宇佐八幡宮から八幡様を勧請したのと同じで、寺院に神道の神様をお招きしお祀りしたことからは、奈良時代から始められた神仏習合が見られます。
春日大社の参道にはたくさんの灯籠がありますが、昔は春日大社は夜、奈良で一番明るい場所だったといいます。毎晩三千基の灯籠に火が灯され、そのゆらめく明かりは幻想的な世界をつくり聖域とされました。
興福寺は治承4年(1180年)の平家による南都焼討で東大寺とともに伽藍が焼かれましたが、神聖な春日大社の敷地に平家の兵士が足を踏み入れることはありませんでした。春日大社は以後戦乱に巻き込まれることなく、多くの武将に庇護され、聖域が守られてきました。
それにしても油が高価で貴重だった時代に、毎晩三千基もの灯籠に灯りが燈されるとは、いかに春日興福寺が経済力をもっていたのかが分かります。
YouTubeではお伝えできなかった内容です。
奈良時代の灯りは蜜ろうそくも使われていたようです。ろうそくは平安時代になると松脂ろうそくが使われるようになり、また脂燭(しそく)という数本の茅をまとめたものの先端に紙を巻いたり油を塗って先端に火を灯し持ち歩く器具もあったようです。
春日大社の灯籠が増えたのは、平安時代末期に若宮が創建されたからです。若宮は御本殿から少し離れた場所にあり、御本殿で祀られている天児屋根命(アメノコヤネノミコト)と比売神(ヒメガミ)の間に生まれた天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)をお祀りしています。
天押雲根命:水徳と知恵と生命の神
平安時代に長雨・洪水が相次ぎ、飢饉・疫病が起こった時に、時の関白の藤原忠通が万民救済の為に若宮の神殿を造営したところ、長雨洪水が治まり晴天が続いたので、以後大和一国を挙げて五穀豊穣や万民安楽を祈るようになり、その際に灯籠が寄進されるようになったといいます。
若宮のことは旅の後から知ったので動画を撮れませんでしたが、春日大社の歴史を感じたい人は若宮と大宮を繋ぐ道の灯籠をご覧になるのがおすすめです。全国にある室町時代の灯籠の七割近くがその道に立っているようです。
春日大社の灯籠は有名な戦国武将や貴族が奉納したものが知られていますが、三千基のうちそのほとんどは庶民、その8割が商人を中心とした一般の人によるものなのだそうです。灯籠は家内安全や商売繁盛、武運長久、先祖の供養等の願いをこめて寄進されたものが多いのですが、近隣の村々から雨乞いを願って奉納された灯籠も少なくありません。神々の宿る山とされている春日山は、春日興福寺の貴重な水源地で、古来より雨乞い信仰が強かったのだそうです。
春日大社の特別参拝
南門から中に入り、拝観料を払うと特別参拝をすることができます。御本殿に近づくことができ、また藤棚や大杉、寄進された数々の釣灯籠を見ることができます。
入口が南にあることから、天子南面の思想が取り入れられていることが分かります。
※天子南面:天から統治者として認められた天子=皇帝・天皇は北を背にして南を向き、その臣下は北を向くという思想→神社やお寺の入口が南(南門や南大門と呼ばれている)にあるのはそのためです。
※第一殿に武甕槌命、第二殿に経津主命、第三殿に天児屋根命、第四殿に比売神をお祀りしている
釣灯籠
春日大社に奉納された3000基の灯籠のうち、釣灯籠は1000基、石灯籠は2000基なのですが、奉納の際に収める額は釣灯籠が200万円から、石灯籠が250万円からなのだそうです。正確な金額は分かりませんが、個人が気軽に奉納できるものでないことは確かです。
春日大社の釣灯籠は、有名な戦国武将が奉納したものが人気ですが、こちらの目の前で見れる灯籠も素晴らしいと思います。元禄や享保の元号が刻まれています。
※元禄年間:1688年~1704年の町人を中心とした生き生きとした活気ある文化が花開いた時代
※享保年間:1716年~1736年の徳川吉宗が改革を行った時期
御本殿の近くでしょうか、戦国武将で有名な直江兼続や島左近、宇喜多秀家や藤堂高虎が奉納したものや、徳川綱吉が奉納した釣灯籠があるようです。
寛永の元号が刻まれている釣灯籠もありました。寛永年間といえば、鎖国令が立て続けに出され、寛永の大飢饉と島原の乱が起きた時代です。
※寛永年間:1624年~1644年の徳川家光の時代
回廊の外に出ると御蓋山(みかさやま)の遥拝所があります。武甕槌命(たけみかづちのみこと)を勧請した際に、白鹿に乗り天から舞い立った御蓋山の頂上を拝む場所です。
御蓋山は現在も禁足地(きんそくち)になので、一般の方が遠くから拝む場所が設けられているようです。
時間が無かったので折り返してしまいました。遥拝所は御本殿に向かって右の東回廊の外にあります。
※春日山は御蓋山と花山の総称、もしくはどちらかの通称。
東回廊では、金箔が時の経過と共に剝げ落ち、酸化して緑色になっていく釣灯籠を観ることもできます。
藤波之屋
東回廊の反対側、御本殿に向かって左にある藤波之屋では、電灯で灯された灯籠を観ることができます。こちらは年に三回行われる春日万燈籠という神事を感じることができる場所となっています。
春日万灯籠とは2月の節分と8月14日・15日に、すべての灯籠に火を灯し、神仏に祈りを捧げる神事です。その起源は、室町時代や江戸時代に奈良町の住人が雨乞いの祈祷のために、参道に提灯や行燈(あんどん)を作り、それに火を灯したのが始まりといいます。
全国の寺院では今でも万燈会(まんどうえ)という一万、あるいはそれに準ずる数の明かりを灯す行事がお盆の時期に行われ、東大寺や薬師寺、高野山のものが知られています。
江戸時代になるまででしょうか、中世まではほとんどの庶民の家には明かりがなかったので、万灯会という神事は現在の私たちが想像するよりも遥かに幻想的で神々(こうごう)しい行事だったのではないでしょうか。
春日大社の式年造替
御本殿正面の撮影はご遠慮くださいとのことなので、社殿をずっと撮った映像がありませんが、春日大社といえば、二十年に一度行われる式年造替(ぞうたい)が有名です。
※式年とは定められた年、決められた年のこと
日頃守っていただいていることに感謝を込めて神様のお住まいを新しくする行事が創建以来60回行われてきましたが、式年にて60回を越える御殿の建て替えを行っている神社は伊勢神宮と春日大社だけです。これは春日大社が藤原氏によりつくられ、天皇家・摂関家に関わる由緒ある神社であるため、式年造替が続けられてきたからなのです。
※20年に1度建て替えることによって建造技術を後世に継承させる意味もある
式年遷宮では、通常の朱塗りではなく不純物のない本朱で春日大社と若宮の御本殿が塗られます。純度が高く、深く濃く、鮮やかで尊い色で、今も昔も入手困難な本朱で塗られた御本殿は、特別公開の時だけ観れるようになっています。ちなみに朱には水銀が含まれていますが、不純物がないため無害なのだそうです。
ついでですが、神社や寺院が朱塗りなのは魔除けのためだけではなく、朱色に生命の美しさや力強さがあり、尊い場所に使われてきた歴史があるからなのです。そのため社寺ではない平城宮も朱塗りです。
春日大社の神職の方が書かれた本で知りましたが、正月の神事では御神前で祝詞を奏上した後に興福寺の僧侶が読経を行う、神仏習合の時代の、本来の形が今でも続けられているようです。また興福寺の僧が修行の前に春日大社に参拝し、修行の部屋に春日大社でいただいた火を灯し、春日曼荼羅を掛けて修行することも書かれていました。
明治時代の神仏分離で興福寺の僧が皆、春日大社の神職になったことに対して、興福寺の僧は節操がないと批判的に書かれている本を読んだことがありますが、春日大社は明治政府の政策を強要されそれを受け入れながらも神仏習合の時代の、本来の形ともいえる教えを残してきたことが伺えます。
春日大社周辺の見どころ
春日荷茶屋
お昼ご飯は春日荷茶屋(にぢゃや)で茶粥を食べるのを楽しみにしていたのですが、残念ながら開いていませんでした。春日大社の参道の入口にあります。旅をした時はコロナの蔓延防止重点措置期間が再延長されていた時期なので、仕方ありません。
春日荷茶屋では万葉集にちなんだ四季折々の旬の野菜などを添えた「万葉粥」が創業当初からの看板メニューで人気です。
萬葉植物園
春日大社の参道の入口にある春日荷茶屋の隣には、萬葉植物園があります。旅の後から知りましたが、こちらには万葉集に詠まれた植物が植えられているのだそうです。
また、藤原家に縁(ゆかり)のある藤の木が約200本植えられていて、4月下旬から5月上旬までは様々な藤の花を観ることができるようです。
一般的な棚造りではなく「立ち木造り」という、見上げずに目線の高さで藤の花を鑑賞できるのが評判なのだとか。
柿の葉寿司ゐざさ
コロナ禍で食事処が数軒閉まっていましたが、こちらのゐざさで食べることができました。
東大寺の門前の夢風ひろばにあるお店です。
柿の葉寿司と素麺のセットを頼みました。
奈良の食べものといえば、茶粥や奈良漬、葛餅の他に柿の葉寿司や素麺も有名です。
柿の葉寿司は平宗、たなか、ヤマトが有名で、素麵は三輪が有名です。
柿の葉寿司の歴史はこちらで紹介しています。
柿の葉寿司の歴史 | 四季を気ままに (shikikimama.com)
奈良国立博物館
昼ごはんの前に奈良国立博物館に寄りましたが、国立博物館と言うだけのことのあるボリュームのある展示でした。
奈良国立博物館は正倉院展や特別展が行われる東新館と、一カ月に1回展示替えが行われる西新館があり、さらに地下の回廊を渡ると仏像館と青銅器館もあります。
じっくり観たら少なくとも半日はかかる展示の量で、見応えのある博物館でしたが、東京の国立博物館と比べると写真が撮れないのが残念でした。
2枚だけ、金峯山寺(きんぷせんじ)の仁王門に安置されている、5メートルもある金剛力士立像(こんごうりきしりゅうぞう)の写真を撮ることができました。
依水園
博物館の近くには依水園という日本庭園があります。
入場料が1200円と結構な値段で、入るからには時間をかけてじっくり鑑賞したい庭園ですが、時間が押してしまったので、観るのは断念しました。
依水園には江戸時代に造られた前園と明治時代に造られた後園の二つの日本庭園があり、両方を見比べながら鑑賞するのがおすすめのようです。
東大寺と興福寺の間にある依水園の近くには、吉城園(よしきえん)という無料の日本庭園や氷室神社もあります。
氷室神社は字の通り、かつてこの辺りの池で固めた氷を貯蔵し、平城京に収めていた神社です。
また、近くの奈良町で食べ歩きをしたり、日本酒やクラフトビールを飲むのも楽しそうです。
次回(興福寺)に続きます。
参考文献
YouTubeでも春日大社の見どころを紹介しています。興福寺とセットになっているので観やすいかと思います。どうぞご覧ください。
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