【山梨】再訪 赤沢宿散策 築180年の江戸時代の講中宿の面影を残す大阪屋に一泊

山梨県

2019年9月、山梨県早川町にある赤沢宿に行きました。江戸時代から昭和初期にかけて栄えた講中宿が残る集落のある場所です。去年訪れた際に自然に囲まれた素晴らしい場所だったので、再訪することにしました。赤坂宿や今晩泊まる大阪屋は去年の記事にも書いていますので、そちらも見てみてください。

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下部温泉駅から赤沢宿へ

下部温泉駅からバスに乗って赤沢宿に向かいます。赤沢宿へは去年も行き記事にしましたが、今年も大阪屋というゲストハウスに一泊して、のんびり散策したいと思います。

14:06に駅の待合室の前から、奈良田温泉行のバスに乗ります。運賃400円、乗車時間約30分(2021年現在)。

これから向かう早川町という場所は、日本で一番人口の少ない町です。

静岡県との県境に位置する町で、山梨県の西部の「奥山梨」と呼ばれる場所になります。

2018年9月の時のもの

世界最古の温泉宿としてギネス認定されている慶雲館のある西山温泉が早川町の北の方にあり、その更に北に行くと奈良田温泉があります。どちらも温泉好きの人には人気の場所です。

早川町は土地の96%が山林を占める山だらけの町ですが、雨畑硯が特産品として知られています。

七面山登山口・赤沢入口で降り、ここから40分ほど歩いて赤沢宿に向かいます。

2018年9月の時のもの

橋を渡って右の道をひたすら上っていくと、着きます。

2018年9月の時のもの

写真は昨年訪れた時のもので、この時は工事のため車両の通行止めの看板がありました。

2018年9月の時のもの

坂を少し上ると、木を伐る工事をしていて、ガードレールの外に設けられた道を歩く羽目になりました。

歩行中は作業を止めてくれましたが、山から石が落ちてこないか気が気でありませんでした。

地方ではこうした工事が日常的に行われているのかと思うと、不思議な感覚がしました。

坂道をひたすら上りますが、急な坂なので夏は汗だくになるほどです。

約2kmの行程なので、半分までやって来ました。

さっき歩いている時に、ガードレールに猿がいました。写真を撮る間もなく逃げていきましたが、この辺りには猿や鹿がいるようです(ちなみに猿に出くわした時は歯を見せると威嚇のサインになりますので、歯を見せないようにした方がいいです)。

30分ほど歩いて上ってくると、道が開けて赤沢宿の集落が現れます。

奥の赤い屋根の建物が今晩泊まる大阪屋です。

2018年9月の時のもの

赤沢宿を散策

赤沢宿は、日蓮宗の総本山である身延山久遠寺と、霊山である七面山を結ぶ参道沿いに設けられた集落です。当時は久遠寺に参拝した信者たちが赤沢宿に一泊して、翌日七面山に参拝したため、宿場町のようなものができました。

江戸時代後期から昭和初期にかけて、多くの参詣客を迎え入れ、宿場町として発展しましたが、戦災や戦後の高度経済成長期の影響を受けなかったため、当時の町並みがそのまま残れています。

場所はこの辺りになります。

大阪屋でもらったパンフレットを基に周辺を散策してみます。

2018年9月の時のもの

まず大阪屋の隣にあるのが、清水屋。

観光案内所兼カフェで、ここで休憩できます。

赤沢で収穫した蜂蜜や地域の特産品、工芸品を販売しているそうです。中に入りたかったのですが、営業時間間近だったので残念ながら入れませんでした。

清水屋のブログでは赤沢宿や清水屋の歴史が書かれていて、いろいろと参考になります。

大阪屋の横にある道に出ると、石畳の道が続きます。

写真の右上にあるように、建物には「○○屋」という屋号を書いた札(屋号札)がかけてあります。当時は集落に住む人は皆望月姓を名乗っていたそうで、それぞれの家を区別するためのに掛けていたそうです。

石畳を上がると喜久屋という建物があります。

ここは無料休憩所で、中に入ることができます。真ん中の方にある小さい戸口から入ります。

前回は知らずに素通りしてしまいましたが、今回はチェックインした時に宿の方に教えてもらえました。

縁側で靴を脱いで上がります。

1階は囲炉裏の部屋ですが

2階にも上がれます。

昭和初期に建てられたものらしいです(木造です)。

2階へ

向かいの萬屋

部屋には昔の調度品があります。

箪笥や写真も

そして襖を開けると、いい景色を見ることができます。

宿の方から、電線がないので写真写りがいいと教えてもらいました。

確かにいい景色です。

宿泊者でない場合は、観光案内所の清水屋で内観できるか聞いた方が良さそうです。

喜久屋を見学した後は石畳を上ります。

斜め向かいにあるのが大黒屋

大黒様の石像があります。

もともと赤沢宿は正式な宿場町ではなかったのですが、江戸時代中期頃から七面山への参拝者が増加するようになり、住民たちが住居を宿所として提供し宿場町のようになり、明治時代に入ると多くが旅館業を営むようになりました。

参詣者やその荷物を担いで運ぶ駕籠人足や案内業も増え、旅籠と一緒に繁盛したそうです。

女性の登拝者も多く、寛永17年(1640年)に徳川家康の側室で日蓮宗に帰依していた養珠院(お万の方)が女性で始めて七面山を登拝したことがきっかけとなり、以後女人禁制が解かれ、広く民衆にも信仰されるようになりました。

特に江戸時代中期になると物見遊山が活発になり、身延講と称して久遠寺を参拝してから奥の院を詣でさらに身延往還と赤沢宿を利用し七面山登拝するといったルートが確立します。

七面山は日蓮上人の弟子が開いたと伝わる霊山で、日蓮宗の守護神や鎮守とされる七面大明神(七面天女)が祀られている事が名称の由来となっています(諸説あり)。現在も宿坊があり数多くの登拝者を迎え入れています。七面山の標高は1982m、身延山は標高1153mです。

この辺りが見晴らしのいい場所となり、写真を取り忘れましたが、えびす屋があります。若山牧水が泊った宿として知られています。高い所にあって見晴らしのいい宿に泊るとのことで、えびす屋に宿泊したのだそうです。

若山牧水(わかやま ぼくすい)は、1885年(明治18年)- 1928年(昭和3年)の戦前日本の歌人で、赤沢宿には彼が詠んだ歌碑が3つあります。

高い所に上がって行くと、段々見晴らしがよくなってきます。

誰も住んでいない建物

お札が入口に納めてあります。

昔の人は講を組んで神社やお寺に参詣しに行き、そこでいただいたお札を入り口や台所などに納めていました。しゃもじにも何か意味があるのでしょう。

寂しく少し不気味な場所ですが、もう少し上まで行ってみます。

さっきもあったような曲がり角を進み上まで上ると、アスファルトの舗装された道路になります。

その一番高い場所に、若山牧水の歌碑があります。

3ヵ所あるうちの一つです。

書かれているのは、「雨をもよほす雲より落つる青き日ざし山にさしゐて水恋鳥の声」。

この辺りは大体、標高600mくらいらしいです。宿は500mくらいの高さだと、聞きました。

来た道を戻ります。

この通りはストリートビューでも見れました。

ストリートビューでは葉が色づいた秋でしたが、宿の方いわく11月頃になると山々が全体的に色づき綺麗な景色が楽しめるそうです。紅葉の時期は11月の第1週が見頃らしいです。

お札

獣除けの電流が流れている柵

先ほどの 喜久屋

かつて身延講の講員たちは身延山の久遠寺の奥の院からこの道を3時間ほど歩いて降りてきて、宿に泊ったとのことです。

坂を下って左に行くと、大阪屋があります。

赤沢宿については、記事の後半にも書いています。

ゲストハウス 大坂屋旅館

今晩泊まる大阪屋旅館は、築180年を超える講中宿をリノベーションしてゲストハウスしている建物です。宿泊者の8割は外国人観光客らしいです。

まず目に付くのが、軒先にあるこの板マネギと呼ばれる(マネキ札とも)、講中札です。

宿泊した講中(団体)が自分らの宿泊場所であるという目印に置いていくもので、明治期から使われるようになったものらしいです。

大正・昭和と時代を追うごとに豪華になりカラフルになっていったのだそうです。

現在も大阪屋96枚の講中札があるのだとか。

屋根は鉄板葺に葺き替えられています。

門をくぐると、左に宿の入口があります。真っ直ぐ行くと、奥に赤沢宿資料館があります。

靴は手前のアスファルトの所で脱ぎます。

中に入り、ソファで名前や住所を記入して、宿泊料5,000円を払います(2021年10月現在、宿泊料は6,000になっています)。

2018年9月の時のもの

入り口の内側に貼られたお札

隣にあるテーブルがある部屋が、食事をする場所となります。素泊まりなので食料を持ち込むか、キッチンを借りて料理して、ここで食事をします。食器や調味料は借りることができますし、カップ麺やペットボトルの飲みものなどのちょっとしたものは売っています。

奥の部屋にはちょっとした庭があります。

前回来た時は知りませんでした。灯籠のあるいい庭です。

このL字型の土間が大阪屋の特徴です。「通り土間」と呼ばれるもので、大勢の宿泊客が
座敷に直接出入りできるようにした造りになっています。

最盛期は1日に1000人近くもの参拝客が宿に宿泊し、泊まりきれなかったこともあったそうです。

天井にはかつての講中が貼った千社札が。

千社札は江戸時代に庶民の間で自分の名前や住所、屋号を記した貼札を貼るのが流行り、神社の鳥居やお寺の門などに貼られました。参拝した証を神社やお寺に残すことで、ご利益がもたらされると考えられていたようです(現在ではほとんどの場合罪になります。指定文化財や重要文化財に貼ると罰則・罰金んがあり、文化財保護の観点から禁止されています)。

部屋は2階になります。

相変わらず素晴らしい部屋です。

建物の2階は街道側に縁側が設けられ、それぞれの部屋へ移動できるようになっています。今回は2回目ということで、部屋はあまり撮っていません。大阪屋の建物の写真は前回の記事に沢山載せているので、そちらを見てみてください。

大阪屋の建物は至る所に日本建築の繊細な技法が施されていて、内部も見ていて飽きません。

縁側で日が暮れるのを待ちます。この時は9月の下旬でしたが蚊が少なく、障子を開けていてもあまり咬まれませんでした。17時には辺りが暗くなり、18時には真っ暗になります。

縁側で寝転がってみると、懐かしさのある固い感覚、普段では感じることのない木の感覚が何ともいいものでした。虫の音が心地よく、たまに猿が叫んでいます。

嬉しいことに、差し入れをいただきました。「藤稔(ふじみのり)」という山梨の葡萄です。「大峰(たいほう)」として流通していることもあるのだそうですが、これがまた素晴らしく美味しかったです。ほどよい甘みと酸味が最高でした。

調べてみると、黒ぶどうの王様と呼ばれるピオーネを交配した新しい品種らしく、大きな粒が特徴なのだそうです。

昼に浸かった温泉のせいか、猛烈に眠くなり20時過ぎには寝てしまいました。大黒屋旅館で浸かった下部温泉の冷泉が効いているようです。ここに来る前のバスでも眠くなりました。冷泉は効果があるようなので、次回ゆっくり浸かってみたいと思います。

早朝の赤沢宿散歩

4時半前に起き、顔を洗います。冷たい水が眠気を一気に覚ましてくれます。

外が明るくなるのを待って、5時過ぎに散歩に出かけます。

意外にも寒くはなく、長袖1枚あれば十分で歩くと半袖でいいくらいの気温でした。ですが昨年来た時は9月上旬でしたがそれなりに山の気温だったので、防寒着はあった方がいいです。

天気はよくないですが、空気が綺麗なので歩いていて心地がいいです。

この道を真っ直ぐ行くと昨日歩いた道に出て、ぐるっと回って

こっちの道から下りてきます。

蕎麦屋(そば所 武蔵屋)は土日のみの営業です。

先ほどのお店か分かりませんが、徳富蘇峰が七面山に登った時の帰りに赤沢宿でそばを食べたことが『人間界と自然界』に書かれています。登る前には大阪屋で昼ご飯を食べています。

井伏鱒二の『七面山所見』にも少しだけですが赤沢宿の記述があります。七面山については『夏日お山講』『七面山のお札』の作品に描かれています。

『やまだらけ』という地元情報誌で知りました(No.70早川に光をあてた文人たち)。早川フィールドミュージアムというサイトでバックナンバーが無料で公開されています。

旅籠(昔の旅館)や強力(駕籠屋)、ジビエや伝統野菜、味噌やお茶など、早川町での暮らしや文化がいろいろと書かれていて面白いです。

前回も書きましたが、赤沢宿について少し触れておきます。

江戸時代中期から講と称する旅が庶民の間に広まってから、赤沢宿には七面山に参拝する登拝客が増えました。

そのピークは江戸時代後期から明治時代にかけてといわれ、また、大正から昭和期にかけてともいわれています。昭和期にかけて身延線が開通することで参詣者が急増したため、江戸後期~明治初期よりもこの時の方が最盛期だといわれることもあるのだそうです。

明治期には参拝客の案内人や荷物を持つ業者が増え、赤沢集落の34戸のうち9戸が旅籠(はたご)屋を経営するようになります。連日多くの参拝客が訪れ、客室に泊まれない客が沢山いたらしいのですが、特に 4月と10月は参詣者が多かったそうです。

多い時には1日で1,000人もの宿泊客が泊まったそうです。

食事だけとりに来る参詣者なら5,000人もいたなんてこともいわれています。第1陣、2陣、3陣と参詣者の団体を時間ごとに休ませて七面山に送り出したなんてこともあったそうです。

しかし戦後になると信仰者の減少や交通網が整備されたことで、参詣者は減っていきます。登山口まで車で登ることができるようになったことや、レジャーブームにより他の土地に遊びに行く人が増えたことで、減少の一途を辿ります。

そして昭和30年代頃になると宿を利用する参詣者も大分減り、旅館経営を終える旅籠屋が増えていきました。跡継ぎ不足から旅籠が次々と閉鎖に追い込まれ、今では江戸屋旅館と大阪屋の二つのみの営業となっています。

赤沢宿は現在、国の重要伝統的建造物群保存地区となっていて、主屋や蔵など84戸、石碑や石仏、門など39件、石垣や湧水池、古道など118件が保存地区として認定されています(早川町ホームページのHOME > 観光情報 > 観光名所 > 文化財 > 赤沢宿より)。

これは明治時代以降の近代化や戦後の高度成長の開発などを受けなかったために、当時の町並みが今日も残されているからなのです。

現在も営業している江戸屋旅館

立派な瓦

こちらに若山牧水の2つ目の歌碑があります。

詠まれているのは「朴(ほお)の木と先におもひし 近づきて 霧走るなかに見る 橡(とち)若葉」。

そして江戸屋旅館と大阪屋を結ぶこの道の途中に

3つ目の歌碑があります。

2018年9月の時のもの

「花ちさき 山あぢさゐの 濃き藍の いろぞ澄みたり 木の蔭に咲きて」

2018年9月の時のもの

旅を愛し各地で歌を詠み歌碑を残した若山牧水は、鉄道旅行を好み、鉄道紀行の先駆といえる随筆を残した人物としても知られています。青空文庫でいくつか作品を読むことができます。

2階でのんびりしてから、9時半過ぎにチェックアウトします。今回もいい時間を過ごすことができました。昨年に続き今年も宿泊者は自分一人でした。

秋は11月の第1週が紅葉が綺麗な季節で、宿泊客も増えるのだそうです。学生の頃にこういういい場所を知っていたら、4人くらいでドライブしながら来れたのにと、少し残念に思います。

コインランドリー(有料)もあるので、旅の途中に寄って一泊するのもおすすめです。楽天トラベルからも予約できます

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七面山登山口 神通坊

大阪屋を出た後は、山道を下りてバス停の方に向かいます。隣の清水屋に寄りたかったのですが、宿の方から神通坊について教えてもらったので、そちらを見てみることにしました。

バス停から少し離れた所にあり、こちらも七面山への登山口がある場所です。

左に進むとお墓があり

鳥居があります。

ここからいくつかの坊を通過して七面山に向かうようです。

坊と宿坊のことだとおもいます。日蓮宗の信者の団体しか宿泊を受け入れていない坊もあるそうです。

宿の方いわく、この通りが外国人観光客にとっては人気の撮影スポットなのだとか。

たしかに昔の日本の道らしくていい場所です。お寺にお墓に鳥居にと、日本らしさも写真に収めることができるので、納得です。

ちょっと奥まで歩きたかったのですが、熊出没の看板があるので引き返すことにします。

昨日はガードレールに猿がいましたし、獣がいてもおかしくありません。

近くにやませみという食事処がありますが、こちらも地元に人気のお店のようです。

定食、ラーメン、丼、カレーなど様々なメニューがあり、美味しいと評判だと聞きました。

さて、そんなこんなで時間になってしまったので、10:30過ぎのバスで下部温泉駅に戻ります。

2018年9月の時のもの

前回の記事:下部温泉散策①甲州名物ほうとうと下部温泉名物冷泉を楽しむ旅

次回の記事:下部温泉散策②甲州名物馬刺しとぬる湯を楽しむ旅

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