2019年11月の平日、山梨県の塩山市に1泊2日の一人旅をしました。塩山駅からバスで恵林寺に行って夢窓疎石が作ったとされる庭園を観て、岩波農園のころ柿の日干しを見学して、甘草屋敷や菅田神社に行き、塩山温泉郷にある井筒屋旅館に一泊しました。
塩山では11月の中旬から紅葉ところ柿の日干しが見られ、散策におすすめの季節となります。JR高尾駅から約1時間10分とそれほど遠くなく、日帰りでも楽しめる距離です。今回は、恵林寺の日本庭園・ころ柿・甘草屋敷・塩山温泉・馬刺し・盆栽を紹介していきます。
旅の行程
1泊2日の旅ですが、塩山散策は1日目だけで2日目は東京の高尾の散策となります。1日目は塩山駅からバスに乗り恵林寺に行き、有名な庭園や文化財を鑑賞します。恵林寺の近くにはころ柿を干している岩波農園が有名なのでその光景を見学して、駅に戻って甘草屋敷を見学して、塩山温泉街にある井筒屋旅館に宿泊します(素泊まりです)。
2日目は東京の高尾に戻り、盆栽展を開催している駒木野庭園に寄りました。
1日目
7:28高尾駅出発
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8:44塩山駅到着
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9:05塩山駅発(バスで恵林寺へ。山梨交通窪平線)
9:16恵林寺着
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9:20恵林寺参拝
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11:00岩波農園でコロ柿を鑑賞
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11:54恵林寺発(バスで移動)
12:05塩山駅南口着
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12:10甘草屋敷を散策
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15:00井筒屋別館チェックイン
2日目
井筒屋別館をチェックアウト
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9:22高尾駅発
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10:35高尾駅着
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10:50高尾駒木野庭園
塩山駅
東京高尾駅から6:27の電車に乗り8:44に塩山駅に降りました。乗車時間は1時間14分、運賃は1166円。通勤ラッシュの時間帯でしたが、混んでいたのは大月駅まででした(混むといっても座席が埋まっているくらいですが)。
駅に降りてまず感じたのが寒さです。高尾駅も東京では寒い方ですが、塩山はさらに寒いです。スマホで気温を見てみると、東京は14℃で塩山は11℃でした。アウターの中に襟付きシャツとヒートテックのインナーだけだと寒いと思い、ダウンを着ていきましたが正解でした。
この寒暖差の激しい土地がフルーツ栽培にいいのでしょう。塩山地区は県下有数の桃とスモモの生産地で、桃畑が山の斜面に沿ってひな壇のように広がっている土地でもあります。例年4月上旬から中旬にかけて濃いピンクの桃の花と白いスモモの花が一斉に咲き乱れる「桃の花まつり」は、東京から訪れる人が多い人気のイベントです。
駅前にあるマンホールには大菩薩峠の絵が描かれています。甲州市の北東部に位置する大菩薩峠は日本百名山のひとつに数えられ、標高2057mのなだらかな稜線は山歩き初心者にもおすすめなようで、登山者に人気があるようです。塩山駅からバスが出ています。
塩山の地名は市の南西部に位置する「塩ノ山」に由来しているようです。「塩ノ山」は古今和歌集で「志ほの山 差出の磯に すむ千鳥 君が御代をば 八千代とぞなく」というめでたい歌にも詠まれ、当時の宮廷歌人に桃源郷のように考えられていたのだとか。他にも、四方から見えることから「しほうのやま」といわれ、それが「しおのやま」になり塩山という地名になったともいわれているそうです(山梨県甲府市観光協会HPより)。どのみち海の塩とは関係がないようです。
南口に出るとバスとロータリーがあり、恵林寺へのバス停は左になります。バスの案内は分かりやすいので間違えることはないかと。
恵林寺
塩山駅南口からバスに乗り恵林寺に降ります(乗車時間約10分、運賃290円)。
バスには10人以上乗客がいましたが降りたのは自分ともう一人だけでした。ベトナム人の4人組や中国人のカップル、登山者らしき人が数人乗っていました。
バス停から真っ直ぐ進むと恵林寺に着きます。イチョウがいい感じに色づいています。
四脚門
織田信長の甲州征伐(1582年)の際に一度焼失し、その後徳川家康によって再建され(1606年)当時の姿を今に伝える唯一の遺構。構造はシンプルでありながらも赤色がひときわ目を惹き、桃山文化の特徴を表しているのだそうです。門の上には恵林寺の山号である「乾徳山」の字が掲げられています。
恵林寺は臨済宗妙心寺派のお寺で、元徳2年(1330年)に甲斐の地頭・二階堂貞藤(にかいどうさだふじ)が夢窓国師を招き創建した禅院です。
武田信玄の尊敬を受けた美濃の快川(かいせん)和尚が入山してからは、信玄が寺領を寄進して菩提寺と定めます。
三門
「心頭滅却すれば火も自ら涼し」の言葉が生まれた場所として知られています。「心頭滅却すれば火もまた涼し」といわれることの方が多いようですが。
武田信玄の跡を継いだ勝頼が天目山で自刃し甲斐武田氏が滅亡した後、武田家残党が恵林寺に逃れ、織田軍がその残党の身柄の引き渡しを要求した際に断ると焼き討ちに遭い、それに反抗・抗議するために焼身自殺をしたことが今日伝えられています。その際に発せされたのが、「心頭滅却すれば火も自ら涼し」。
火に包まれたのは快川国師だけでなく、百人以上ともいわれる僧侶等と供に亡くなったとされています。
三門の正面にあるのが開山堂。
夢窓疎石や快川紹喜(かいせんしょうき)、末宗瑞曷(まっしゅうずいかつ)の三像が堂内に安置されています。末宗瑞曷は家康の命に従い恵林寺を再建した僧です。
三重塔(仏舎利宝塔)
入館料を払って本堂を見てみます。
本堂
こちらからは入れないので庫裡から入ります。
庫裡
禅寺の中でも珍しい大きな庫裡で、徳川家康によって再建された後、明治38年の火災により焼失し、現在の本堂・庫裏は明治末期に再建されたものらしいです。御朱印はここで受け付けています(300円)。
庫裡(くり)とは寺の台所。転じて住職や家族の居間を指すことも。庫裏と書かれることもあります。
戦時中には東京の学童疎開の場となり、約150人の小学生が寄宿生活を送った場所であるのだとか。
本堂
大正・昭和初期のものと思われる千社札
こういう反った橋は太鼓橋とは違うのでしょうか
うぐいす廊下。人が歩くと床の板が軋(きし)んで音が鳴る様に造られている廊下。うぐいす張りとも。外部侵入者を知らせるために設けられたのが始まりとされる。
廊下の奥には武田信玄が生前に彫らせたという不動明王像がありました。
外を歩くこともできます。
水路や苔がなんともいい雰囲気です。
外には武田信玄のお墓や武田家武将のお墓があります。柳沢吉保夫妻の墓所もありました。柳沢吉保は5代将軍徳川綱吉の側用人をつとめた人物で、江戸に六義園を造った人物としても知られています。江戸で亡くなってからこの地に改葬されました。
橋に戻り本堂の方に向かうと、
左に有名な庭園があります。
夢窓疎石が作ったとされる庭園
池泉回遊式の庭で、池の周囲に自然石と常緑の松を組み合わせた景観は、水墨画の世界を思わせます。池泉回遊式庭園とされていますが、庭園を歩くというよりかは廊下やお堂の中から庭園を見渡してその美しさを楽しむ造りになっているそうです。
夢窓疎石は臨済宗の僧で北条高時、後醍醐天皇、足利尊氏、直義とすべての権力者から帰依された人物であり、豊富な知識でその間を取り持ち外交官のような働きをしました。政治だけでなく、書・漢詩・和歌どれをとっても天才といわれ、商才もあったと伝えられています。
天才作庭師といわれる夢窓疎石ですが、Wikipediaには「世界史上最高の作庭家の一人」とまで書かれていて、その評価の高さがうかがえます。禅寺に初めて枯山水の庭を作った人物といわれ、わびやさび、幽玄などの日本文化の美が形成された室町時代に大きな影響を与えた人物でした。
夢窓疎石が庭を作った京都の西芳寺や天龍寺は世界遺産になっています。他にも、神奈川県の瑞泉寺庭園、山梨県の覚林房庭園、岐阜県の永保寺庭園が夢窓疎石が設計したと伝わったいます。
そういった見所のある庭園なのですが、芸術に疎い自分には残念ながらその良さが今一つ分かりませんでした。腰かけてゆっくり鑑賞したかったのですが、予想に反して時間を持て余してしまいました。
庫裡(くり)の隣にある宝物館にも寄ってみます。入館料は500円(恵林寺本堂との共通券は700円)
中の展示は、武田家24将の説明や巻物、鎧や弓矢、江戸時代の家老柳沢がメインでした。2階建てで2階には快川国師有名と夢窓疎石とコロ柿のパネルが1枚あっただけでした。個人的には庭園のことや塩山の土地に関することが知りたいところでした。戦乱により宝物関連は紛失しているのでしょうが、500円にしては内容に物足りなさがありました。
境内は樹々が色づき、散歩をするのにいい場所です。
武田不動尊のある場所も石塔や苔があり、いい場所でした。
明王殿。裏には武田信玄の墓所があります。
大小切騒動と殉難の碑。明治政府による税制の統一(事実上の増税)に反対して死刑にされた村の代表を義民と称えている碑。
年貢米の3分の2をその時の相場で金納するという、武田信玄以来甲州だけで行われていた納税は、徳川幕府が改革をしようとしもあまり抵抗の激しさで断念せざるを得ないものでした。明治5年に従来の納税法の廃止が断行され、反対した3700名以上が何らかの処罰を受けたと書かれています。
恵林寺を参拝した後は、近くにある岩波農園に向かいます。
恵林寺は紅葉の名所と紹介されているサイトをいくつか見たのですが、紅葉はそれほどありませんでした。
次回に続く
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