【旅49日目】山形県立石寺と米沢神社へ

日本一周

仙台駅の近くにあるネットカフで朝を迎えます。旅49日目は山形県の山寺に行き、米沢駅の上杉神社に行き、会津若松駅のネットカフェで一泊します。朝から電車の運休があり、今日も予定を変更しての旅となります。今回は山寺(立石寺)、上杉神社、米沢氏上杉博物館を紹介します。

それでは本日の行程です。

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49日目の行程

7:07仙台駅発
8:13山寺駅着
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8:30立石寺散策
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10:01山寺駅発
11:55米沢駅着
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12:40上杉神社、米沢市上杉博物館
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17:44米沢駅発
20:45会津若松駅着
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21:00会津若松駅から離れたネットカフェで一泊

7時前にネットカフェを退店し仙台駅に向かいます。今日はこれから7:35の電車で松原海岸駅へ行き、松原観光をする予定です。

ですが、駅に着くと早くも予定が狂います。松原に向かう電車が運休しています。仙石線と石巻線の全線が運休です。実は昨日チリで大地震があり、津波を警戒して海岸線の電車が運休しているのです。チリの地震はマグニチュード(M)8.3あったようで、太平洋側の沿岸部に津波が押し寄せる可能性があると、駅でアナウンスが流れています。

すぐさま予定を変更して、山形県の山寺に行くことにします。万が一津波が来ても、山の方に移動すれば何とかなるだろうと思っての判断です。7:07の電車で山寺駅へ向かいます。あらかじめ複数の予定を用意しておくと、こういう時に役立ちます。それにしても、昨日は仙台駅まで移動しておいて良かったです。予定通り石巻駅で泊まっていたら、朝から動けず立ち往生していました。

仙台駅から山寺に向かう仙山線という路線は、山の中を走る景色のいい路線でした。山寺に向かうまでに、いくつもの山を電車で通りますが、山々に霧が立ち込めてとても神秘的です。1時間と少し電車に乗り、8時過ぎに山寺駅に到着します。

ここも霧がかっています。

駅から降りて山寺に向かいます。正しくは立石寺です。

駅から登山口までは歩いて10分もかかりません。

橋を渡るとお土産屋や食事処が軒を連ねます。

こけしや漬物を売っているようで、食事処はおそばの店が多いです。あいにくまだ開いていないので、素通りします。

そばの支度

日枝神社への参道もあります。

山寺の入り口にやって来ました。

立石寺

正しくは宝珠山立石寺といい、860年に清和天皇の勅願のよって慈覚大師が開いた天台宗のお山です。

昨日一昨日参拝した恐山や毛越寺・中尊寺を開山したのも円仁です。円仁がこの地を買い取り、布教にあたったようですが、円仁が唐から帰国した時は50歳を過ぎていて、高齢になってから東北を巡回したとは考えられないともいわれています。円仁の弟子達によって天台宗のお寺が建てられたと考えた方が正しいとされています。ちなみに、弘法大師の開山も同様といわれています。全てが全て、弘法大師が実際にその土地に行って開山した訳ではないとされています。

本堂

根本中堂と呼ばれています。ブナ材による建物としては日本最古の建物のようです。

招福布袋尊

撫でるとご利益があるらしく、多くの人に触られて、てかてかになっています。

ここから山門に向かいます。

山門です。参拝料300円払って中に進みます。

ここから奥の院を目指して800段の階段が登ります。約500mの道のりを20~30分かけて進みます。
標高は大体、登山口が250m、頂上が400mです。

雰囲気のいい、整備された道を歩きます。

修験の場として知られている寺ですが、修行者は参拝客が歩く道とは別の道を歩いていきます。一番狭い道は約14cmの幅のようです。

仁王門

もう少しで奥の院です。奥に見えるのが納経堂です。

正面にある岩場も修験の道だったようです。出世や欲望のための修行者が転落して死んだことが書かれています。

奥の院に到着です。時間が早いためか、まだ扉が閉まっています。

結構登ってきました。

霧が一層修験道の雰囲気を出してくれるのですが、電線が景観を損ないます。至る所に電線が張り巡らされていて、熊野古道や出羽三山のような世俗から離れた場所という感覚がありません。

納経堂と五大堂に向かいます。

開山堂。立石寺を開いた慈覚大師円仁を祀るお堂です。大師の木造の尊像が安置されていて、朝夕に食事と香をお供えしているようです。

納経堂です。山内一古い建物で、1599年(慶長4年)最上義光が建てさせたものと伝えられています。

開山堂の右手にある階段を上ると、五大堂に着きます。

今では展望台と思われていますが、本来は一山を守護する五大明王を祀る堂です。1714年(正徳4年)に再建されてから、その都度改修しています。

下界を見渡せます

素晴らしい景色です

雲がまた

何とも幻想的です

落書きがとても残念です。アルファベットでしょうか。横文字の落書きが目立ちます。

今もなお残る修験道。五大堂の近くから修験道が続いています。

下山口を歩いて戻ります。

奥の院か本堂かどこにあるのか分かりませんが、立石寺は不滅の法燈を守ってきた神社でもあります。比叡山延暦寺から分燈された不滅の法燈は、信長の延暦寺焼討の後に延暦寺に分燈しています。

宝物館に立ち寄ります。

山寺を立てた円仁の生涯を説明しています。15歳で延暦寺に入り、45歳で今の中国に行って10年仏教を学び、帰国後に東北にお寺を建てたようです。

「閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声」。この名句は松尾芭蕉が山寺に登拝した時に詠んだと伝えらえています。

駅に戻ります。山寺付近のマンホール。

市の花ベニバナと市の木ナナカマドの絵のようです。

10時の電車で山形駅に向かいます。

山形駅までは20分もかかりません。

山形駅から米沢駅に行く電車の待ち時間が結構あったので、一旦改札を出ます。改札から近い駅ビル内で食事でもと思いますが、どこも11時から開店でまだやっていません。仕方ないのでお土産屋で時間を潰します。いも煮や冷たい肉そばが有名みたいですが、食べる機会がありませんでした。

山形駅から米沢駅へは奥羽本線で移動します。50分の道のりを、いい景色を楽しみながら進みます。電車の走る高い所から盆地が見え、家や田んぼ、小さな池や沼が見え、自然の豊かな田舎の景色を垣間見ることができました。写真を撮ろうと思うと木々で隠れてしまうので、写真は撮れませんでした。

お昼ごろに米沢駅に到着です。

駅のコインロッカーに荷物を預けて、上杉神社まで40分ほど歩きます。

蝦夷石南花(エゾシャクナゲ)という花のようです。

ウコギ。米沢藩九代藩主の上杉鷹山が栽培を奨励した植物として、知られています。

若葉は食用に、根皮は滋養強壮の薬として使われるようで、ビタミンやミネラルの豊富な健康食だと書かれています。

朝から食べていないので食事処を探しますが、米沢牛と米沢ラーメンのお店ばかりで、食べることなく神社に到着してしまいました。

上杉神社

上杉謙信と上杉鷹山を合祀している神社です。上杉景勝が米沢に入封された際に、謙信の遺骨を持ってきたようです。

上杉鷹山の像

米沢藩九代藩主で傾いた米沢藩を立て直した人物です。現代にも通じる政治手腕を発揮した人物として知られ、ジョン・F・ケネディから尊敬する日本人は誰かと記者に聞かれた時に、「上杉鷹山だ」と言ったことで国内で有名になった人物でもあります。

神社を参拝した後は宝物館に寄ってみます。

謙信や鷹山が使っていた鎧が展示されていました。謙信のは豪勢で、鷹山のは質素な鎧です。謙信が使っていたとされる戒杖刀(かいじょうとう)が展示されていますが、長いものでした。謙信女性説なんてものもありますが、実際にこれを使っていたのであれば男性ということになります。戒杖刀とは、杖の中に仕込んだ仕込み刀です。山伏が護身用に持って歩きました。

矢を受け流す兜も展示されています。兜の表面がツルツルになっていて、横に回天するようになっています。矢が当たった時に、矢を受け流すようです。本当に効果があったのなら、もっと生産されたのでしょうから効果は分かりません。本当に効果があったけど、鉄砲が普及したため増産されなかったのかもしれません。以外と面白い展示でした。

謙信のお墓があった場所。

戊辰戦争で亡くなった米沢藩士を祀る慰霊碑

上杉神社を参拝した後は、伝国の杜という米沢市上杉博物館に寄ってみます。

米沢市上杉博物館

上杉鷹山の藩政改革や米沢の近代化を知れる博物館です(入館料410円)。写真撮影が可能な展示も多くあります。どのようなものを推奨して傾いた財政を立て直してのかを、ビジュアルで分かりやすく解説しています。

米沢が置賜(おきたま)と呼ばれているのは知りませんでした。山形県の内陸部の南部を置賜地方というそうです。

上杉鷹山が財政再建のために推奨したものを紹介しています。絵があり分かりやすい展示です。

上杉神社に向かう通りにうこぎの垣がありましたが、若葉は食用に、根皮は滋養強壮の薬として使われました。

大名による殖産興業(新産業の育成)によく使われたのが、焼き物です。食器や甕、火鉢といった生活に必要なものであるため、藩が専売することで収入を安定させることができました。

冬の内職として彫り物も推奨されました。

笹野一刀彫の一例が下の彫り物です。鳥や人が彫られています。削り花という木を削って作る花が一番作られたようで、縁起物の大黒様や疫病除けの蘇民将来、魔除けやネズミ除けのタカの4つが作られたようです。

漆の実は蝋燭の原料として、青苧(あおそ)は織物の糸の原料として、他藩へ売られました。青苧は上杉家が越後にいる時から重宝していた産業で、米沢に転封した時から藩の大事な産業だったようです。

明治になってからは人造絹糸ことレーヨンが米沢の産業として有名になりました。鷹山は青苧を原料とした麻織物を推奨しますが、同時に桑の栽培と養蚕も興し絹織物も成長させます。鷹山がつくった織物業の土台は明治に受け継げられ、海外に輸出されるようになります。大正になると、人造絹糸が発明され造られるようになり、米沢を代表する産業になります。昭和の初期に金融恐慌で山形の工場が閉鎖しますが、繊維業の本場大阪に本社が移り、現在の帝人として続いています。

なかなか見応えのある博物館でした。

1時40分くらいに博物館を出て、電車の時刻を検索してみると、まさかの4時間待ちです。今朝急に予定が変更したので、次の電車を調べていませんでした。電車を待つといっても、せいぜい2時間くらいだろうと思っていたのですが、まさかの4時間待ちです。米沢駅はもっと都会だと思っていたので、これは予想外です。

博物館を出てしまった後なので、ゆっくり展示物を見ることもできません。近くのお土産屋を覗いたり、駅に向かう途中にある漆器のお店に立ち寄ったりして、ゆっくり帰ります。

後で知ったのですが、近くには東光の酒蔵が見れる酒造資料館がありました。旅をしている時はまだ日本酒に興味が持てなかったので、立ち寄らずに駅に戻ってしまいましたが、新しいことを知れそうな場所です。

お腹が空いているのですが、相変わらず寄りたいと思うお店がなく、米沢駅に戻ります。キオスクでビールとサンドイッチを買って食べ、駅そばで一杯そばをすすって駅の待合室で2時間ほど、ぼうっとします。

何気なく千石線や石巻線の運行状況を検索したら、まだ運休でした。昨晩石巻駅に泊まっていたら、今日は1日立ち往生していました。朝からずっと不安な中、1日を過ごしているのでしょう。移動できても仙台までだったでしょう。そう考えると電車を3時間4時間待つくらい、どうってことないものです。

米沢駅で数時間、時間を潰して17:44の電車で会津若松駅に向かいます。福島駅と郡山駅を経由して行くわけですが、約3時間の移動で会津若松駅に着くのは20:45となります。

米沢駅から福島駅に向かう途中、3つ目の峠駅のホームで売り子の方が「いかがですか~」と歩いています。風情があるなぁ、なんてぼんやり見ていたのですが、後から弁当を売っているのではなく、お餅を売っていることを知りました。峠の力餅というお餅を販売していたのです。10個入って1000円なのですが、限られた時間で商品とお金の受け取りをしやすいように、お釣りの出にくい1000円にしているのだとか。写真を撮っておけば良かったです。

さて、電車で移動すること3時間、午後の8時40分にようやく会津若松駅に着きます。

ここから歩いて30分の所にある、ネットカフェで一泊します。

街灯の少ない暗い道を歩きます。怖かったのは、用水路が見えなかったことです。たまにニュースで用水路に落ちて怪我をしたなんてニュースを見ますが、夜や雨の日は確かに分からないなと、身をもって実感しました。

車が結構通るので、後ろから来た車に配慮して歩道に寄ろうとすると、用水路に落ちそうになったり、途中で用水路にかかる橋のようなものが無くなっていたりと、田舎にはこういった危険なことがあるんだなと分かりました。

自分のような酒飲みは、居酒屋からの帰りに普通に落ちそうです。そもそも歩く人がいないので、危険でもそのままにしているのでしょう。会津若松駅でも親や家族が車で迎えに来るのを待っている人がいました。大抵の人は車で移動するのでしょう。

用水路に落ちないように暗い道を緊張しながら歩くこと30分、今晩の寝床に到着です。21時に快活クラブ会津若松店に入り今日の行程は終了です。

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