【旅7日目】大阪1日観光 食より歴史 大阪の歴史にふれる旅

日本一周

大阪のネットカフェで朝を迎えます。旅7日目は1日大阪府内を観光します。四天王寺、大仙陵古墳、堺市博物館、大坂城、適塾を回ります。

それでは旅の行程です。

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7日目の行程

9:00四天王寺

10:00大仙陵古墳

10:50堺市博物館

13:00大阪城

15:00適塾

JR難波駅
難波で一泊

8時前にコミックバスターを出てJR難波駅のコインロッカーに荷物を預け、まずは四天王寺に向かいます。

JRで天王寺駅に向かいます(難波駅から和歌山の方に南に下りていきます)。乗車時間は5分、運賃150円くらいと近くです。

四天王寺

天王寺駅から歩いて10分ほどで、四天王寺に到着です。

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四天王寺
聖徳太子が初めて建てた、日本仏法最初の官寺として知られてます。官寺とは、国の監督を受ける代わりに経済的保証を受けたお寺のことです。大化の改新後、国家の目的と一致するお寺は保護され、国家の管理下に置かれました。

四天王寺は、聖徳太子が戦勝を四天王に祈願したことが始まりと伝えられています。皇位継承を期に、当時二大有力豪族だった神道派の物部守屋と仏教派の蘇我馬子との武力衝突が起こります。その時に当時14歳だった聖徳太子も参加しており、物部氏との戦いに勝ったら四天王を安置するお寺を造ろうと祈願したと言われています。戦いに勝利した後、聖徳太子が約束通り難波に四天王寺を建立したのがこの寺院の由来とされています。

南大門

古い時代のお寺は南に正門がある造りです。南大門を抜けると、中門が見えてきます。

中門

これより先は(中門の内側は)、塔や金堂、講堂があり境内で一番大事な場所となります。伽藍の守護神である金剛力士 (仁王像)を両脇に祀っていることから、「仁王門」 とも呼ばれます。

四天王寺の伽藍配置は、一直線上に南大門・中門・塔・金堂・講堂が並んで建てられていて、これらを回廊で囲んでいます。日本最古の伽藍配置様式で建てられているのが、このお寺の特徴ともいえます。中心伽藍の金堂は本尊を安置している堂で本堂といい、講堂は昔お坊さんが経典の勉強や講義をしていた建物をいいます。

太子殿。聖徳太子をお祀りしているお堂。

宝物館は休館でした。楽しみにしていたのですが、通年ではなく季節ごとに開催されるものでした。後で調べてみるとそれほど貴重なものはないようです。四天王寺は由緒ある寺院ですが、度重なる災害に遭ってきたので、貴重な美術品や工芸品が失われてるらしいのです。

梶の木
梶は当時の紙の原料で、現在では珍しい樹木なのだとパネルに書かれています。神聖な木とされ神社の境内に植えられることが多く、神事や供え物の敷物に使われてきました。

七夕の時には梶の葉に願い事や歌を書いたようです。梶の葉には細かい毛がたくさんあるので、筆で文字を書きやすいのだとか。茶道では七夕の季節に水差しの蓋に梶の葉を使うこともあるようです。

亀井堂

「経木流し」という死者の供養をする場所です。戒名の書かれた経木を、読経してもらった後に亀形の水盤に沈める儀式です。一度水の底に沈んだ経木が浮かび上がって来るのを見て、これでご先祖様の霊が浮かばれたと安心する儀式のようです。

亀井の水は霊水とされているようで、天竺から竜宮城を経て流れてくる水という伝説が残っているらしく、極楽から流れてきた水でご先祖様の供養をしているようです。これも旅の時は知らず、旅を終えてから知りました。

境内ではお盆の準備をしています。

庭園があるので、行ってみます。

極楽浄土の庭

池泉(ちせん)回遊式庭園という、池を中心にその周りを歩く庭園です。浄土の庭とあるので、浄土式庭園かと思いましたが違うみたいです。知識があるとより楽しめるのでしょうが、予習が間に合わなかったので取り合えず歩いてみます。

蓮の花が咲いている場所が極楽を表しているのでしょう。鳥が休んでいる岩が、阿弥陀三尊石です(蓮の花で隠れてしまっていますが)。

一通り庭園を歩いて、お寺に戻ります。

この灯篭は納められたもののようです。お盆の準備をしているので、灯篭は先祖や故人の霊が迷わないための迎え火や送り火という役割があるのでしょう。また、故人の冥福を祈り、感謝の気持ちを込めて供養するといった意味もあるようです。

門に提げられている灯篭が何とも綺麗です。

西の門からお寺を出ます。

石鳥居

鳥居というと神社のイメージがありますが、お寺にも鳥居があるのは珍しいものではありません。例えば、東京の高尾山薬王院にも鳥居があります(下の写真)。

石鳥居は日本で2番目に古い石鳥居だと言われています。日本で一番古い石鳥居は、山形県にある元木の石鳥居というものらしいです。

色々と見所のあるお寺でした。

写真を撮らなかったのですが、天王寺駅への道を歩いていると、仏具店や石材店があります。仏具店には、数珠や牌、仏壇や写経用のノートのようなものが置いてありました。仏具店は自分にとっては身近なものではないので、興味を引くものでした。

天王寺駅に戻り百舌鳥駅に向かいます。

駅にかけうどんを食べられる店があったので入ってみます。関西圏のうどん屋は駅構内だろうが普通の通りにあるお店だろうが、関西風の味付けになっていて食べると関東との違いが分かるとネットで見たことがあります。期待して食べてみると、残念ながら関東の味と変わりませんでした。関西風の出汁を期待していたのですが違いました。

10時過ぎに百舌鳥駅に着き、大仙陵古墳に向かいます。百舌鳥駅から歩いて5分です。

大仙陵古墳

日本史の教科書でおなじみの古墳です。エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵と並ぶ世界三大墳墓の一つとして知られています。5世紀から約20年かけて造られたとされ、日本最大の前方後円墳です。

この日本一の墓を造るのに1日1000人が働いても4年近くの歳月がかかり、延べ140万6千人が造営に従事したといわれています。

いろいろな団体が参拝していたので、近くには寄りませんでした。

上空からでないと古墳の全体像が見えないので長居のできる場所ではありません。周りを歩いても見えるのは堀と木だけです。日本一の大きさのこの墓は周囲を歩くと1時間かかるそうです。

2019年7月に世界遺産に登録され、令和3年には百舌鳥古墳群ビジターセンターが建てられています。

隣の堺市博物館に行きます。大仙公園内にあるのですが、広大な敷地です。

堺市博物館

入場料は200円で撮影もできます。

説明のパネルが非常に分かりやすい、いい博物館です。展示は古墳時代の堺、中世の堺、堺の祭りの3構成ですが、個人的には中世の堺が一番見応えがあり楽しめました。

東洋のベニスと言われた堺について、博物館で知ったことを少し書いておきます。

百舌鳥古墳群に代表されるように、堺には数多くの古墳があり、5世紀には古墳群をつくるための道具を製造する人々が集団をつくり、鍛冶技術が発展する基礎ができたと言われています。

南北朝内乱期には、軍事物質の輸送発着港として機能し、商工業者が多く住み着くようになりました。そして応仁の乱の時代には、遣明船の発着港となり国際貿易として畿内の経済中心となっていきます。

ポルトガル人によって種子島に鉄砲が伝えられた翌年には、堺商人がその製造法を堺に持ち帰ったと言われています。元々鉄砲を作る鍛冶技術の下地があった堺は、鉄砲を量産し国内最大の生産地となります。

また、16世紀にポルトガルよりタバコが伝わります。国内でタバコの葉が栽培されるようになると、その葉を刻む「タバコ包丁」が必要になります。堺でタバコ包丁も作られるようになるのですが、この包丁が輸入品のものよりも切れ味が優れていたため、全国に広がります。

戦国時代は堺を抑えるものが天下を抑えると言われたほどの、商業都市です。博物館の展示は分かりやすく、なぜ堺がそう呼ばれていたのか理解できました。

展示物からは、過去の技術が現在どのように受け継がれているのかを知ることができました。いい博物館だと思います。

過去にあった優れた技術というものは、形を変えて続いていくものだと思います。伝統工芸では後継者がいなくなったり原料が確保できなくなって途絶えてしまうものがありますが、途絶える前にどこかで誰かがこれまでに培ってきた技術や、受け継いできた技術というものが、何かに転用されて生き続けているのだと思います。この博物館は、鉄砲鍛冶として名を馳せた堺の技術や文化が、時代が移り行く過程でどのように変化し、今の生活に関わっているのかを知ることができる、よい場所です。

旅の後で調べてみて知ったのですが、堺の技術は自転車部品の製造にも受け継がれていったようです。明治3年(1870年)頃からドイツ製の自転車が輸入されたのをきっかけに、以後日本でも徐々に自転車が普及していきます。機械金属に対して優れた知識と豊かな経験をもっていた「鉄砲鍛冶」たちが、自転車の修理や部品の製造にあたり、その普及に一役買ったとされています。第一次世界大戦が起きると、輸入がほとんどストップしてしまいが、国内で生産する必要性から堺は自転車の一大産地として発展しました。

現在でも、堺製の部品がなくては日本の自転車産業は成り立たない、と言われていますが、ロードバイクの部品で有名な「シマノ」が大阪で興ったことを考えば、納得できます。また、堺は貿易地、海路の拠点なので、昆布の加工産地としても知られているようです。

調べてみるといろいろと新しい発見がありそうです。時間をかけて調べてみたいものです。

内容が濃くて展示をじっくり見てしまったので、この後の予定に入れていた堺伝統産業博物館(刃物博物館)はキャンセルしました。

近くにある、大仙公園内にある日本庭園にも寄ってみます。

それにしても、広大な敷地です。

大仙公園内の日本庭園

築山林泉(ちくざんりんせん)庭園という様式の庭園です。

池の他に、築山や林、田園など有機的につなげた大規模な庭園です。

歩いていて飽きない庭園でした。

さて、堺市博物館と日本庭園に寄った後は、大阪城に向かいます。百舌鳥駅から電車に乗りJRで大阪城公園へ向かいます。乗車時間は30分くらい、運賃は250円くらいだったかと。

大坂城

大阪城公園駅の改札を出ると、広大な敷地が広がり、城の大きさを実感します。

天守閣まで10分ほど歩きますが、とにかく広い城です。

堀も大きい。

当時の城はもっと広かった訳で、難攻不落と言われたのも理解できます。

今の大阪城は、大坂の陣の後に徳川家によって造り直されたものです。その前は今の大阪城公園の4倍もの広さだったと言われています。

散歩にはいい場所ですが、夏の炎天下歩くのはちょっと、といった感じです。

坂を上り天守に到着です。

城内に展示されていた大阪の陣の時の、配置です。

この図を見ると、いかに大阪城が広かったかが理解できます。

大阪城を歩いた後は、途中私鉄に乗り換えて淀屋橋駅で降ります。


オフィス街の一角にある、適塾に行ってみます。

適塾

蘭学の第一人者として知られている、緒方洪庵が開いた塾です。鎖国の時代、オランダを通じて輸入されるヨーロッパの学術や文化、技術は日本人にとって大変貴重なものでした。塾生達は時間を惜しんでここで蘭学を学び、日本の発展に役立てます。

緒方洪庵は、幕末に活躍した蘭学者で、西洋医学書を翻訳して広めたり、コレラの予防に尽力したりと、大きな功績を残した人物です。

当時コレラは「3日コロリ」と言われており、かかったら3日で死んでしまう大変恐れられていた病気で、江戸だけでも10万人の死者を出していました。緒方洪庵は、コレラの対処法を広め、その予防に大きな貢献をしています。

また、適塾は幕末から明治維新にかけて、近代日本の国家形成に関与する多くの人物を輩出しています。福澤諭吉・橋本左内・大村益次郎・大鳥圭介らが、適塾で学んだ塾生として知られています。

パンフレットには出身者それぞれの写真や肖像画が載っています。
左上談から右に、橋本佐内、大村益次郎、福沢諭吉。
中段左から右に、長与専斎、緒方洪庵、大鳥圭介。
下段左から右に、佐野常民、緒方八重(洪庵の奥さん)、高松凌雲。

長与専斎
内務省の初代衛生局長として、日本に衛生行政を確立する。
佐野常民
赤十字社の創始者。初代総裁となる。
高松凌雲
函館戦争では函館病院を開院し、官軍・幕軍と問わず傷病兵を助ける。日本における赤十字運動の先駆者とされる。

パンフレットには載っていませんが、東京帝国大学の初代医学部綜理となり、日本の近代医学の礎を築いた池田謙斎や、アドレナリンを発見し、三共の創業者となる高峰譲吉も適塾の出身者です。

錚々(そうそう)たる面子です。適塾がいかに日本の近代医療に貢献したのか理解できます。明治維新の立役者となった人物だけでなく、適塾で学んだ多くの塾生が郷里に帰って開業医となり、地域医療や種痘事業に貢献しています。

展示物の撮影は不可ですが、家屋や庭の写真は撮影可です。

当時のままの木造ではありませんが、構造はそのままです。

この塾では文字通り「一生懸命」勉強する塾生が集まり、勉強のし過ぎで死者が出たほどです。塾生は畳一畳だけ与えられ、そこで寝たり勉強したりしました。

分からないことは聞いてはならず、辞書で調べ自分で考えたようです。それでもどうしても分からない時はといったら、もっと上級者向けの辞書で調べるのだとか。

こういう場所に来ると、まだまだ努力できるな、もっとやれるな、と前向きに取り組む力をもらえます。

適塾を観た後は、難波へ戻り道頓堀を散歩します。JRで移動です。

道頓堀

食べ歩きの街、道頓堀にやって来ました。

活気があって歩いていて楽しいのですが、一人では食べる気になれませんでした。たこ焼きをはじめとした粉物には興味があるのですが、夏の暑い時に食べる気にはなれず、気軽に座って食べる場所も見つからなかったので、食べるのは辞めました。

大通りを外れた場所にも、いいお店があります。

19:30に昨日泊まったコミックバスターに早めに入り、翌日の予定を詰めます。

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